【曇晴】



::曇り
::晴れ




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その日は朝から散々だった。

起き抜けに副官は体調が優れぬと使いを寄越してくるし、下働きの者が寝坊し朝餉が遅れ、調練は開始直後に雨が降り中止、その後の軍議では部下の些細な発言から孟徳が気分を悪くし、中断。
勿論その部下にはすぐに謝りに行かせ、自分自身も孟徳を宥めてはおいたので、明日にはまた続きが出来るとは思うのだが、重要なのはそんなことではない。

つまり今日俺は、厄日なのだろう。

そんなこんなで、予定外に時間が出来た。
こんな時こそ普段、中々まとまった時間が取れず棚上げになってしまっているような事務仕事をやってしまいたいと思うのだが、こういう日に限って、何故か仕事も残っていなかったりする訳で。
気分を変えに、街へ出た。
街は良い。従兄弟や仲間内からはよくおかしいと言われるのだが、俺は町民独特の生活臭といったようなものが好きだ。毎日を”生きる”様が色濃く感じられて良い。
戦場の死の匂いとは違う、生きている臭いがするのだ。
だから街に出た時は、中心地だけでなく、より生活感の感じられる、色々な路地にまで入って行くことにしている。

思えばそれが、いけなかったのだ。



『夏侯惇将軍と御見受けする』

その声に振り返れば、青年と呼べる程度の人影が9つ。

『さぁな。人違いだろう』

身分、職業、そして家柄の都合上、俺だって、こんな状況には慣れている。
慣れているのだ。だから、何となく流して時間を稼ぎ、その隙に中心街まで戻ろうと考えた。
この手の連中は、騒ぎを大きくされるのを嫌うものだし、何より裏路地とはいえ、街を汚したくはない。

だが。

『逃げるか?盲 夏 侯 将 軍』

その言葉で、一瞬にして頭が真っ白になり、気が付くと、既に目の前の男を一人斬っていた。

いつも従兄弟の淵に対しては、冷静になれだの大人になれだの言っている癖に。
自分も大概馬鹿だと思った。









「で、今に至る訳だ」

目の前で、私の寝台に座っている同僚は、そう言って笑った。

「はぁ」

――呆れるとしか、言い様がない。

私はその感想を隠すことなく顔に出す。
この男は――本人は自分の事を常識人と思っているようだが――、てんで世間とずれている。
温室育ちとか、そういうことではない。強いて言うならその逆、その身分に合わず、温室でなさ過ぎるのだ。
例えば、殆どの武人が好むであろう華美な装飾や豪華な暮らしは一切望まず、使用人も必要最低限のみ残し解雇し、貧しい者に家財を施しているらしい、という、その一点だけとってもその逸脱さ加減は大したものだろう。
贅沢よりも節制、華美よりも実用を重視する人なのだ。体面等を気にしない訳でもないのだが、どうにも人とずれている。
将として確かに隻眼は不便かつ不名誉だと思うが、それを言うなら使用人がろくにおらず庭の手入れに将軍ともあろう者が偶にでも参加しているということ等も確実に不名誉なことだろう。理解できない。

「で、その夏侯惇将軍は、勿論の事ながら今後御一人で界隈をうろつくなどといった行為はお控えになられるのだろうな」
「何を言っている。俺は、無事だろう」

何に憚る必要があるのだ、と、わざとらしくおどけて言うその口の端からは血が滲み、頬にも赤い筋が二、三入っている。
その上、腕にはその殆どを包帯で覆い尽くさなければならなかった程の怪我をしているし、今現在眼には見えない服の下にある傷の程度とて、私は手当てを手伝ったのだから、知っているに決まっているのに。
それに。

――何も分かっていない。

私は盛大に溜息を吐いた。

夏侯家は、代々曹家に使える名家であると聞く。
当然その長子である夏侯惇は、その昔に何やら仕出かして夏侯家内での地位は下がったらしいが、それでも曹操孟徳の片腕として今現在は曹魏にとって欠かすことの出来ない人物となっているのだ。
その人物が、こうして奔放に振舞う様を見ていると、焦りとも呆れとも怒りとも憧れともつかない妙な感覚を覚える。
勿論、そう身内に馬鹿にされる或いは叱咤されるのが嫌だからこそ、救護係のもとへ行かずに、こうして自分の元で傷の手当をしているのだろうが。

自分、張遼文遠は降将である。
そのため自分の体面には人一倍気を使っているつもりだし、威厳も崩さぬようにしている。
曹孟徳の求める将というものを自分なりに解釈し、それを遵守しようと心に決めている。
だというのに。

この男は。

「――そういうことではない、夏侯惇殿。貴方は、」
「分かっている。まぁそう口を尖らすな、俺だってただの道楽で行く訳ではないのだ」
「本当ですか?」

あからさまにじと眼で見ていると、厳しいな、と、軽く笑った。
おそらくは、何も分かっていないのだろう。
折角持っているものを、私には得ようとしても得られないものを持っているというのに、それを最大限に、打算的に活用しないでいる、貴方が。

――私はきっと、羨ましいと、妬ましいと思っているのだろうな。

それでいて、この男とは不思議と仲良くやれているのだから、こうなるともう自分も分からない。
自分の中にある打算的な――殿の従兄弟と仲を良くしておけば、殿や周囲からの覚えもいいであろうという考えからきたものだと思うのだが、それならば今のようなこの場合、私のとるべき行動は。

「何が厳しいものか。こうして殿や夏侯淵殿に貴方を突き出さずに手当てを手伝ってしまって、甘やかしすぎたかと悔いているところだ」

本当に、我ながらそう思う。
そう言うと、本当に手厳しいな、と、笑いながら言って立ち上がった。

「おや、もう行かれるので?」
「ああ。いつまでもお前の寝所を占領し、仕事の邪魔をしている訳にはいくまい」
「邪魔だ、などと、」
「はは、隠しても無駄だ、お前の忙しさは聞き及んでいる。どうせその机の下の布包みに、大量の木管が隠れているのだろう?」

――ばれていたか。

とはいえ机の下にあるのはいくつも机上において作業をするのは邪魔だからで、布をかけたのは負傷した夏侯惇を部屋に入れる際に汚れぬようにと配慮したためであって、決して夏侯惇のために隠していたという訳ではないのだが。

「隠してなど」
「にしたって、取り出して作業を続けることに遠慮しているのだろう?同じことだ。迷惑をかけて済まないな」

具足をつけ、上着を羽織り。
帰る支度をする彼が、普段より、ひどく淡白なものに思えた。
もちろん実際はそんなことはないのだろうとも、心のどこかで分かりながら。

「負い目を感じられるのであれば、手伝って行かれますか?」
「馬鹿言え。俺などがお前の仕事に手を出したところで、到底お前のような仕上がりにはならぬし、何よりまず字で孟徳にばれて笑われるのがおちだ」
「それはごもっとも」

私がそう返すと、少しは謙遜してみせろ、と、怪我の軽いほうの腕で私を小突いた。
呆れたような、それでいて心から楽しんでいるような、笑顔を浮かべて。

――嗚呼だから何故この男はこうやって!

すっかり身支度を終えたらしい夏侯惇は、真っ直ぐに部屋の出口まで歩き、最後に一度、首から上だけで振り返って。

「お前は優しいな、張遼」
「それは――」

それは誤解だ、と言おうとしたのだが、私が言い終えるよりも先に、彼の背中は外の闇に解けていた。

――優しい?誰が?この私が?
――ひどい誤解だ。

それにしても、と、思う。
夏侯惇も曹魏の将の一人。ということは、当然の事ながら、ここまでくる為にいくつもの骸を築いてきた筈だ。
そしてその死体死骸遺霊の上に、立っている筈なのだ。

――それなのに。

匂いが。
匂いが違うのだ。ひとごろしの筈なのに。自分と同じ。

――否。

違うのだろう。同じではないのかも知れぬ。
自分が人を殺すのは戦の勝利のためであり、何より自身の力の誇示やその力をさらに昇華させるためのものである。
だが、あの男は違う。
彼が刃を振るい人を殺めるのは曹孟徳の勝利、ひいては曹魏の天下統一の手段としてであり、そこに彼自身の意思は無い。
平素の彼は別段好戦的でもなければ非常に理性的であるし、妙に義理や情に厚い。

「貴方は将には向いていない」

呟きは、一人になった部屋に響いた。



違う、そんなことを言いたいのではない。

私が言いたいのはきっと唯一つ。



彼が夏侯家の者でなければ、ただの将であれば。

ただそれだけで。






ただそれだけで、私の胸を穿つこの杭が抜けるというのに。





【了】






______












「夏侯将軍」
「ああ、入れ」

部屋の外から呼びかければ、夏侯惇は明るい声を返してきた。
このところ忙しいといつもぼやいていたのだが、日も沈んだというのに、今の声色。
今日は機嫌が良いのか、それか普段よりも仕事量が少なかった、といったところだろう。

「失礼する。して、何用だ?」

潜り、部屋の中へ足を踏み入れる。
相変わらず小ざっぱりとした飾り気の無い部屋だが、机の上だけは、木管が散乱していた。

――成る程。

単に機嫌が良いだけ、もしくは呼び出した相手への気遣いから来る空元気かと、それらを見て漸く理解した。
私は机前に座した夏侯惇の顔を見ながら、台詞を待つ。
呼び出したのは、この男だ。
わざわざ呼びつけるからには何か用があるのだろうとじっと見つめると、夏侯惇は少し眼を泳がせ、ふいに自分の肩口辺りを見ながら口を開き。
「空が、青かったのだ」
と言った。
「確かに今日の空は青かったが、だから何だ」
「それだけだ」
「空が青いのと私が呼び出されるのとに、なんの因果関係がある」
「そのままだ」
意味がわからず怪訝な顔をすると、眉を曲げて苦笑された。
この男は、あまりこういった理解不能な冗談を言う男では無かったと思うのだが。
「お前と話がしたくなったのだ」
「知っている。だからこうして来ているのだろう。で、だから話というのは一体」
「だから、何かの話をしたいのではない、『お前と話をする』のが目的なのだ」
要領を得ない回答に少しいらつきながら、そしてそれを隠すでもなく表面に出して話していた私の眼を見て。あちらも若干いらつきながら、そんな答えをされては。

――困る。

どうも殿といいこの男といい、魏軍は食えぬ男ばかりだと思う。今まで周囲の人間は目的が明確でひどく分かり易かったのに対し、ここの人間は扱いにくくて仕方がない。
仕方なしに、相手の眼を見据えたまま、少し寄っていた眉の力を抜いた。どうしていいのか分からない時は、勤めて表情を平静に保つことにしている。相手の出方を伺うためだ。

「はて。面白い冗談の一つも言えぬ、無骨な男であると自負しておるのだが」
「知っている」
「少しは否定してくれても良いだろう」
「知っての通り、嘘を吐くのは苦手だ」
「容赦がないな」

まだ他の将は、この新参者の降将に礼を以って接してくる。自分に対しこの様な口を利くのは、軍内においてはこの男だけだ。殿の発言も容赦はないが、この様に砕けていないし、あちらの方は随分と婉曲的で痛い。そもそも殿に対しては私があまり言い返さないのもあるが、したところで、このように馬鹿馬鹿しい、小気味良い言い合いには決してならないだろう。

「仕事も一段落つく頃合だろうと思い、久々に世間話でもしようと自分の仕事もさて置き折角呼び出しているのに、用がないなら呼ぶなと怒る方が余程容赦がない」

顎を軽く上げて、挑発気味に言う。真直ぐに伸びた長い髪が、少し揺れた。

「なんだ。気にしていたのか」
「俺はお前ほど神経が図太くないのでな」
「失礼な奴だな。私とて無粋と言われ気に病んでいる」
「ほう。して、気に病んだ効果はあったか?」
「あれば悩む道理もあるまい」
「成る程。それは確かに理に適う道理だ」

笑いながら立ち上がり、こちらへと歩み寄る。私はただ黙って、凝とそれを見ていた。
すぐ手の届く距離まで来て、その足を止める。視界に入るのが、全身でなく上半身だけになった。

「して、如何する」

動いた唇の発した言葉に、思わず眼を見開く。
呼び出したのは、この男だ。間違いはない。

「それはこちらの台詞だ」
「いいや、俺は目的を言った筈だ。で、お前は如何する。帰るか」
「どういう意味だ」
「どうもこうも、お前が用がないなら呼ぶなと言うのであれば、今直ぐ帰るが道理だと思っただけのこと。どうするか、お前が決めろ」

相手の眼を見る。
常に曇りない眼をしている。この地位、この立場、この時代において、逆に不思議だと、常に思う。加えて、自分の濁りばかり浮き立たされる感覚に、気分が悪くなる。
口は、微かに笑っている。

――試されているのか。

不愉快になって眉をしかめた。

「夏侯将軍」
「前々から思っているのだが、俺はお前の上司じゃない。そんな堅苦しい呼び方はよせ、別に普段から字で構わん」
「では、元譲」
「一気に敬称も取れた様だが」
「敬称など人前で付ければ良かろう」
「そうだな」

笑う。
笑っている。目の前の男が。
実に快活に、気持ちよく笑えるものだ。私には出来ない芸当に腹の中の重いものが質量を増す。
それでも、つられてきっと私の顔も笑ってしまっているのだ。それが余計に腹立たしい。

「元譲」
「なんだ」
「お前も呼べ」
「文遠」
「もう一度」
「文遠」
「もう一度だ」
「ぶん、え、」

素早く頬を掴み、私の名を噤んでいた口を封じる。
軽く触れるだけのそれをすぐに離し、驚いたらしいその眼を、僅かに屈んで見上げてみせた。
狐に摘ままれた様な顔の相手に、つい喉からくつくつと笑いが洩れた。

「付き合おう。友の頼みだ」
「お前の友の基準がよく分からん」
「誤解するな。友の中でもお前だけだ」
「それは、光栄だな」
「嘘を吐け」

ゆっくりと後頭部に回された腕に、引き寄せられる。

――ああ、本当に久しぶりだ。

そこで漸く気付いた。気付くと同時に、自分の腕も動いていた。

外はまだ明るい。人払いはしたのかだのお前の仕事は大丈夫なのかだの、色々なことが浮かんでは、消えた。



久方ぶりなのだ。



それ以上なんの理由も要るまい。



天窓から差す陽光が、こちらを見下ろし哂っていた。





【了】


06/11/19・up




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