【旧SS】 5〜10年前に書いたSS。 各話の【了】をクリックするとTOP(ここ)に戻れます。 01(榎木津と京極堂) 02(由良伯爵) 03(中禅寺) 04(中禅寺夫妻) ______ 01 「探偵を」 始めようと思う、と言った。 「そうですか」 と。 片目もくれず本にうちこみながら、あいつはそう答えた。 「なんだ。もう少し反応したらどうだ。そんなに面白いのか、その―――本は」 言いながら、寝転がったまま首を伸ばし、彼の手中の本を覗き見る。 その時京極堂こと中禅寺秋彦は珍しく和綴じの本ではなく、洋風の装丁をした、分厚い、相変わらず小難しそうな本を読んでいた。 頁には矢張りぎっしりと文字が詰まっていて、中には見たこともないような文字―――等間隔で並んでいるからそう判断しただけで、実際は文字かどうかすら怪しいのだが―――すらある。 そうして、その挿し絵には、おそらくその大半は生物なのだろうと思われる多くの不思議な図形が描かれていた。 「へえ。西洋にはこんな物がいるのか!」 突然感嘆の台詞を吐くと、京極が嫌そうな顔をしてこちらを見た。 勿論、本気でいるとは思っていない。が、かといって嫌味でもない。 ただの『いたら良いだろうな』、という意志表現だ。 面白い、見てみたいと尚も繰り返すと、京極は僅かに苦笑した。 「榎さんも相変わらず変わっているな。千鶴子は気味が悪いから自分の近くでは読むなと言うし、関口君に至っては、よくそんな物を読むなと僕の神経を疑った程だ。いやはや、あんたの感性には恐れ入る」 「気味が悪い?」 言われて、もう一度、今度は体制を整えて覗く。 「―――面白いじゃないか。是非見てみたい」 「ははは」 「笑うな。何がおかしい」 「いや、おかしくはないですよ。面白い。面白くて良いと思いますよその一風どころか二、三風は変わった感性は、ある種の才能だから大切にすると良い」 それだけ言って、吹き出しそうになるのを堪えながら、俯き加減でまた笑い出した。 普段笑わないくせに、こういう時ばかり、無駄に良く笑うものだと思う。 「何を言う。僕は常に基準的判断を下しているのだから、違うという奴がおかしいのだ」 面白くなどないぞ、と言ったのだが、そう言うと、より一層笑った。 「まぁ、そういう事にしておきましょう。 ところで、何故突然そんな思いつきをしたんです」 「『そんな』?」 「探偵、ですよ」 ああ、と、適当な返事をして寝転がった。 話をそらしたのはそちらなのに、ああも突然に話題を戻されては伝わらないだろうと悪態をつくのだが、普通は伝わる、と、軽く流されただけだった。 「今頃聞く位なら初めから聞け。ただ話すだけでも十分面倒なのに、いちいち思い出したりしなくちゃならないから余計に面倒だ」 「すみませんね、僕もさほど聞くつもりはなかったんですよ。似合っていると思いますし、動機もある程度は予想が付きますし、ね。 でも榎さんなりに色々と考えたのではないかと思ったからこそ、一応本人の動機もお聞きしておこうかと思ったんじゃないですか。また何か、常人には到底思いもよらないような、御立派な理由でもあるのではないか、とね」 「ふん。聞いて驚け、実はな、探偵は」 庭に向かう障子の開いた部分から、 一陣の風が吹いた。 「神、なのだ」 「…何処の誰がそんな罰当たりな暴言作ったんですか」 「何だ知らないのか」 「知りませんよ」 「ふふふ、僕だ」 再び寝転がる。 陽のあたった畳の感じが心地良い。 「あんたが決めたんならそれは絶対なんだろうな」 げんなりとした顔で言い再び本に視線を戻す京極を無視して目を閉じる。 と、珍しくあいつの方から話しかけてきた。 「『榎木津元子爵家次男榎木津礼二郎探偵事務所』、って所ですかね」 「なんだ一体」 「事務所の名前ですよ。名字から取るのが一般的なんでしょうが、田中や鈴木とかいう名字ならともかく、榎木津なんて名字はそうは無いですから。お父上の威光を否応なしに背負うことになるんだろうな、と」 「馬鹿。僕はそんなつまらない名付け方はしないし、大体うちの親父に威光など欠片もないぞ」 「じゃあ何か考えがあるんですか」 「じゃあ、それ」 「は?」 彼にしては珍しく驚いた顔をした。 こういう時は何故か、してやったり、と思う。 「だから、それだ。それが良い。」 彼の持つ本を指さす。 先刻とはうって変わった頁である。 『薔薇十字』という題字の下に、薔薇と十字を組み合わせた変な紋章が何種類も載っている。 「『薔薇十字』。何だそれは」 「端的に言うと、魔術やカバラ、錬金術等を内包した一種の都市伝説ですよ。17世紀、宗教革命で不安定となった情勢の中、従来のキリスト教に対する疑心による不安から生まれた、多くの新興宗教の内の一つです。カリオストロやサンジェルマン伯爵をはじめ、名だたる王侯貴顕、哲学者、文学者、芸術家まで巻き込みつつ、国境を越えて欧州全域にまで広がっていった、一種のユートピア思想ですね。 しかし、何故これを?」 何も言わないところを見ると、おそらくまた、似合っているのだろう。 しかし由来や意味など無意味だ。 それに興味もない。 「なんとなくだよ。この僕が気に入った、他に理由があってたまるか。強いて言うなら、今この場でお前がソレを読んでいることそれ自体が既に理由の一つだ」 「なんでです」 「なんとなくだと言っているだろう」 「榎さん」 「なんだ」 「本気でその名前で、探偵事業を始めるんですか」 「なにか文句でもあるのか」 「いえ。それなら、 ―――貴方に。薔薇と十字の祝福を―――」 【了】 ______ 02 ――誰もまだ、死んではいないのに。 そう、この館で死んだ者などいない。なのに何故、官人共は、私から薫子を奪うのか。 ――薫子。 美菜、啓子、春代、美禰、――薫子、までも。 記憶にまだ新しい、彼女の笑顔が浮かぶ。少しすねたような顔、困った顔が、つい先程までそこに有ったかのように。 ああ、薫子。 明るく、正しく。誠実で、正直で。 美しく、温かく、私を受け入れてくれた薫子。 薫子、薫子、薫子。 私の、薫子。 私が愛し、また私を愛してくれたあの女性(ひと)は、またも外界の人間に連れ去られてしまったのだ。 遣り場のない怒りに、私は天を仰いで激高する。 「さぁ薫子を」 そうだ返せ。私の妻を、私の家族となった、薫子を。 ――ぽつ、ぽつ、ぽつ。 天窓からの光が濁る。 雨が私を、関口を、射場を、全てを包み込んでいく。 私の家族。 丹頂鶴、袖黒鶴、真鶴、鍋鶴、黒鶴、冠鶴、そして五蘊鶴。 私は無力だ。 爵位など何の役にも立たぬ。 考、禮、仁、義。 道、徳、心、信、忠を学び儒を通せども、家族一人守り通すことが出来ない。 嗚呼寧ろ、私に代わって守ってくれれば良かったのだ、お前達が。 ――十四羽の鶴。 鶴、黒い鶴、鳥の女王よ。 私は当主として、この鄙(くに)の主として、次の当主を、継ぎ守る者を生まねばならぬのに。 私は、私は―― 私は無力だ。 この鄙(くに)を守ってきた父と祖父に対する忠が、考が、義が奪――立たぬ。 否、立てることが叶わぬのだ。 黒い、黒き鳥の女王よ。 王たる者、漆黒の闇よ。 私は、一体… 「返せ――」 ――克(カツ)。 扉を叩く、聞き慣れない音。この家の者ではない、警察の者とも思えぬ、静かな、重音。 克、克。 こんな叩き方は聞いたことがない。 強くもなく弱くもなく、只、静かで――重い。 この場にいない部外者は榎木津だけだが、あの男は、こんな叩き方をするだろうか、否。 では一体、誰が。 扉が開く。 人の手が、手袋でもしているのか漆黒の手が、覗く。廊下には電気が付いていないのか、扉の外は仄暗い。 あれは闇だ。 闇が這入ってきたのだ。 「――貴方は、何方ですか」 言いながら、私は上向けていた顔を彼に向ける。 黒い。 黒い黒い黒い。 矢張り、闇だ。 彼はきっと黒い――、王なのだろう。 微かにふわりと、彼の衣がたわむ。 ああそうか、あれは鳥だ。鳥の、王だ。ならば、 私の一族となる者ではないか。 「初めまして。由良昂允元伯爵。」 王が言う。 私に、しかし他の者達にも聞こえる、静かな声で。 そして始まる、諭すような問答、繰り返される言葉。 ――『真実』。 真実を語ると、彼は言った。 真実とは何だ。 矢張り薫子はもう既に、外界で殺されてしまっているとでも言うのだろうか。 「それが五蘊鶴ですね」 不意に彼――中禅寺と言ったか――は、私の肩越しに女王を見た。 「その通りです。黒き鳥の女王です」 嗚呼。 彼はきっとこの鄙(くに)の一員となり、そして女王は、その子を成すのだ。 彼は鳥の次なる王を生む者で、次こそ私を、私の妻を、家族を、守ってくれるに違いない。 そして。 「薫子さんは、必ず僕が生かして戻します」 やはり。 そうではないか。 私は正しかったのだ。 そして王は、 王は―― 気のせいか一瞬、 ひどく悲しそうな眼で、私を見た。 【了】 ______ 03 耳鳴りがする。 耳鳴りが。 五月蝿いと思えば思うほど、 気になってしまって仕方がない。 だから。 僕はもう、気にしないでいようと思った。 |
耳鳴 |
仄暗い階段を、前を歩く軍人に従って下る。 足音が妙に響くのは、単に軍人特有の硬質な靴底が鉄筋作りのコンクリートを打つからではなく、むしろ建物の構造によるものだろう。 ――― ここは一体どこなのか。 勿論、そんな事は考えるだけ無駄なのだろうが、それでも、今現在この状況で、他に考えるべき事もない。 今後の自分の処遇については大体想像が付く。 単なる成年男子一人ですら貴重な人材となっている今、一学徒として軍に徴兵されたからには、まず突然殺される事はないだろう。 自分の身体的な特徴から見て、おそらく肉体労働に従事させられることもない。 ならば、知的労働に出されるに違いない。 それなら別段苦にすべきではないだろう。 おそらく扱いとしては、一般的な歩兵に比べ十分優遇されたものになる筈だから。 それは、嘆くべき事ではない。 嘆いてはならない事だ。 例えばこうして何やら不可解な集団に徴集された時。 『あいつだったら何て言うだろう』 『あいつだったらどうするだろう』 『あいつだったら』 『あいつなら』 ――― ああ、下らない。 行動も言動も、全てが破天荒であった一人の男を思い出す。 ※※※ 「なぁお前」 大体が。 何故あんな間抜けで無礼な呼びかけに、振り向いてしまったのだろうか。 「お前、面白いらしいな」 後に分かった事だが―――何をどうすればそうなるのか知らないが―――、彼の中では、変わり者即ち面白い奴、という図式が成り立っているらしい。 自分が変わり者として周囲から見られているのは自覚があったが、それまで”面白い”等という評価を受けた事はなかった。 従って当然、僕はそれを冗談か、生意気な下級生に対する粛清の一種かと受け取った。 「人違いでしょう」 そう言って、その場から立ち去ろうとした。 気を悪くしたとかいう事ではない。ヤジには慣れている。 ただ、面倒なので相手をしたくなかっただけだ。 それなのに。 「その真っ黒いものは何だ?中禅寺秋彦」 全く以って、度し難い。 気違いの戯言だと思えばよかったのだろうが、その時僕は驚いて。 振り返ってしまったのだ。 思えばそれがいけなかった。 ※※※ 「どうした、中禅寺秋彦」 一歩前を行く軍人がこちらを振り返った。 何でもない、大丈夫だと答えると、それならさっさと進めと激を飛ばされる。 全くだ。 馬鹿馬鹿しい。 あんな奴とはもう金輪際会うものか。 否、会おうと思っても不可能なのだろう。 それが戦争というものだ。 だから。 耳に残るあの声も。 ――― 嗚呼、邪魔だ。 自分に『生』を思わせるものは、全部邪魔だ。 ましてや他人の生死など問題外だ。 階段が尽きた。 降りた先からは一本の廊下が伸びており、その先には古びた感のある、しかし厳重な造りの扉が一枚、道を塞いでいた。 前を歩く男が戸を叩き、中へと声をかける。 入り給えという低い声がした。 「お前が、中禅寺秋彦か」 男が戸を開ききるより前に響いた、重低音。 「はい」 部屋の中の男は、噂通り肝が据わっていると愉快そうに笑った。 馬鹿な。 肝が据わっているのなら、こんな煩わしい思いはしていない。 耳鳴がする。 僕は何も要らないのに。 要らなかった筈なのに。 それでも追ってくるあの声は。 その意味は。 否、それと向き合ってしまっては駄目なのだろうと。 僕は、聞こえない振りをした。 【了】 ______ 04 ――僕、は。 眼が、覚めた。 夢を見ていた覚えはないが、何かが頬を伝う冷たい感触がそれを否定している。 ――泣いたのか。 見ていたのであろう夢に対する記憶は無い。が、寝覚めはすこぶる悪いので、少なくとも良い夢ではなかった様だ。 ふと隣で寝ている筈の妻を見ると、やはり静かに眠っているようで少し安堵した。 見られていなかったらしい。 自分が寝るのは千鶴子が寝たのを確認してからなのだから、本来なら自分の方が遅く起きても不思議ではない。 ――まぁ、滅多にそんな事はないのだけれど。 なるべく音を立てない様に布団を抜け、部屋を出る。 昔から得意だった。 音を立てずに、他人に気付かれぬように、動く事は。 ――何故だったかな。 故意に思考を中断した。 思い出したくもない過去を、引きずっているにも程がある。 全く以て未熟というのか、視野が狭く、愚かで、本当に―― 自分が嫌になる。 ――馬鹿じゃないか。 胸の内で吐き捨てるように呟くと、持って出た羽織を羽織る。 時は霜月の初め。 当然ながら、寒気は容赦なく裾を割って入り込む。 早朝だか深夜だかも分からない様な時間に寝巻きでうろつこうなど、我ながら間の抜けた話だ。 縁側の戸を開けると、一層強い寒気が身に刺さった。 何故か無性に心地よい。 「何をしてらっしゃるんですか」 気配は感じていたので、驚くことはなかった。 しかしどういった顔をしたらよいのか分からなかった為、振り向きもせず、言う。 「眼が、覚めてしまって。どうせなら起きてしてしまおうと思ったんだ、済まないな。起こすつもりはなかったのに」 「大丈夫ですよ。偶然起きたら貴方が居らっしゃらなかったから出てきてみただけです」 「そうか」 「ええ」 声が、途切れた。 ※ この人と無言で居ると、度々、時が止まった様な錯覚を覚えます。 それが何故か心地よくて、私はそのままあの人の背中を眺めていました。 背中越しに見える庭がやけに暗く見えるのは、きっと、新月の所為なのでしょう。 この人の背中は平時より闇を宿しているのですから。 私は只ずっとじっと、暗闇に映える浅黄色の着物を見ていたのです。 「千鶴子」 不意に呼ばれ、視線をあの人の頭部に戻すのですが、あの人はまだ庭を見つめていました。 「なんです?」 「僕はもう少し風に当たっているから、先に部屋に戻っていてくれないか」 ざわり。 一際強い風が、舐めるように抜けていきました。 「大丈夫、なんですね?」 またも吹く、音の途切れた間を縫うような、冷たい、風。 「心配は要らないよ、餓鬼じゃああるまいし。ただ少し、夢見が悪かった。ただ、それだけだ」 −間に合わせのような、笑顔。 返答を聞いて踵を返します。 と、あの人の、聞き逃しそうになる程の声がしました。 「済まない」 聞かなかった様に、立ち止まらず、振り返らずに歩きました。 そうするのが礼儀だと思ったからです。 あの人は、本当に手の掛からない、面倒な人なのです。 ※ ――まるで甘やかされているな。 本当に、自分に対する嫌悪がつのる。 自分など、他人にどうのこうのと言えた人物では、ない。 部屋に戻ろうと思い戸を閉めると、外は新月なのだが、それでも微かに暗くなった。 仄暗い廊下を歩きながら、遠い過去と、近い過去、そして現在を想う。 ――嗚呼、本当に。 今日は確か、鳥口君が訪ねてくることになっている。 また何か面倒なことを持ってくるに違いないが、しかしそれもー 気晴らしにはなるだろう。 ――それで良いじゃないか。 いつも通りだ、何もかも。 又、明日が来る。 今日は今日であり、過去現在は、決してもう来る訳もない。 ――否、そんな当たり前の事は分かっている。 理屈なんて。 部屋の戸を開ける。 妻の、安らかで規則的な、寝息が聞こえた。 「千鶴子」 当然返答は無い。 「済まない」 余韻を持った声が完全に消えると、静閑とした部屋が、より一層静まり返る。 静寂の中に、規則正しい寝息だけが残った。 寝る気は起こらなかったので再び部屋を出ると、もう明け方らしく、高らかな鳥の声がした。 ―ああ、 駄目だ。 【了】 08/11/30・re,up ______ |