弟が生まれた。

自分の他に子供が生まれるというのは矢張り不思議な気分で、喜べばいいのか寂しがればいいのか、気恥ずかしさでも抱えればいいのか見当もつかない。
自分もこうして生まれてきたのかと思う反面、その存在に自分はどう接していけばいいのかも分からないまま、そんなこんなで弟の生まれる日をぼんやりと迎えてしまった。

生まれたばかりの赤ん坊は、いつかテレビで見た通りそこまで可愛いと思わなかった。
赤いとか、ぶよぶよしているとか、そんな感想しか持てない自分を妙におかしく思った。

その、掌。
小さい掌に小さくひとつ、けれどくっきりと、四角い痣がある。



残照



まだ病院のベットで横になっている母の隣で、父は喜んでいた。
二人目の子供。
父は子供好きなので、純粋に嬉しいのだろう。
その子供は、父の腕の中ですやすやと眠っている。

「これから正守はお兄ちゃんになるんだぞ」

赤ん坊を抱えたまま屈み込むと、父は俺の顔を覗き込んで、頭を撫でた。
くすぐったい。
坊主頭を撫でられてなのか、そもそも『お兄ちゃん』という肩書きがなのか、その両方なのかは分からない。
ただ、とにかく声は出せなかった。

「ほうら、お兄ちゃんだよ」

父が腕を軽く伸ばして、俺の目の前に赤ん坊の顔が来る。
すやすやと、眠っている。
先程見た時よりも幾分人間らしくはなっていて、どこか安心した。

――おとうと。

ただの息子だった俺はこれから『お兄ちゃん』になり、この赤ん坊は生まれながらに『おとうと』となる。
俺は『正統後継者』ではないけれど、弟は『正統継承者』なので、兄弟とはいえ生まれながらに順位が倒錯している。

生まれた瞬間から、弟には全ての光が当たることになった。
それはついさっきまで俺に当たっていたものであり、また今まで一度も俺には当たることのなかったもので。
実に自然に暴力的に、一瞬にして奪われた居場所がある。
その代わりに残された居場所は、それまでの居場所とどう違ってくるのだろうか。

そんなことばかり考えていたところに兄などと言われ紹介されても、弟にかける言葉は見当たらない。
勿論自分に対しても、何の言葉もかけられない。
弟の幸せそうな寝顔を見ながら仕方なく黙っていると、俺がどうしていいか分からず困惑していると取ったのか、父はすっと立ち上がった。
まだ眠っている赤ん坊に向かって、お前のお兄ちゃんはすごいんだぞ、などと話し始める。
父は、優しい。

祖父は喜んでいる。
雪村め、それ見たことかと、独り言を言っては胸を張っている。
自身が何の手柄を立てた訳でもないのに精一杯はしゃいでいる。
この様子では生まれてきたのが方印のある人間でなく、ただのものだったとしても、変わらず喜んでいただろう。
その逆もまた、然り。
おそらく方印さえ無ければ、祖父は生まれてきたのがどんな赤子だったとしてもここまで喜びはしなかっただろう。

母は、分からない。
普段どおり、ただ静かに笑っている。
とはいえ、母親としてお腹を痛めて産んだ我が子が可愛くない訳はない筈だから、矢張り複雑な心境だろうか。
その子供に方印があって、母や俺の体にはないという、それだけのこと。
母には一体どんな意味があっただろうか。
息子ともなれば、自分と比べるようなものではないのだろうか。

祖父がいなくなったら、墨村はこの弟のものになる。
雪村の娘に勝てば、烏森もその手中に収まるだろう。
それは全て、弟がどんな人間で、どれほどの才能を持っているかに掛かっている。

『正統継承者』とは、一体どんな人間なのか。
自分には、生まれた時の記憶はない。
ただおそらくは、ごく普通の赤ん坊だっただろう。
目の前の赤ん坊も、ごく普通の、何の変哲も無い赤ん坊に見える。

それでもこの赤児は、正統後継者の証を持っている。
それでも烏森は、この赤ん坊は選んだのだ。

赤ん坊に何の差があるのか。
この赤ん坊は、何を持って生まれてきたというのか。
自分は矢張り、それが羨ましいのだろうか――。

「正守」

母の声に、内臓が揺さぶられたような感覚を覚える。
やっとのことで顔を動かし、母の目を見れば、少し血の気の引いた顔色のまま一際に笑って。

「仲良くね」

優しく響いた声に、けれど俺は声を出せず、頷くのがやっとだった。






おとうとの名は、良守という。






【了】
08/05/28・up