自分が特殊な環境で育ったのだと、実際に知ったのは学校に入ってからだった。 幼い子供にとって世界は家という狭い範囲でしかない。 だから、たとえ親や祖父から家業の特殊性を教えられても、実感は全くなかった。 小学校に入学して、たくさんの同年齢と触れ合う機会が増えてきて。 ようやく、分かったことだった。 宵闇 ――夜。 胸に四角い染め抜きのある、深い紺色の装束を着込んで外に出る。 装束は、父が成長期の子供だからと大きめに作ってくれたらしく僅かに大きい。 それでも、祖父の着ているものと同じ、正式な装束。 術はまだ拙くさして役にも立てないけれど、それでも装束に腕を通すと、一人の術者として認められているようで身が引き締まる。 ――俺も、街の命運を背負っているのだ。 自分に言い聞かせて首を振る。 母と同じく、『方印』は出なかったけれど。 烏森からは、愛されなかったということだけれど。 それでも自分は、結界師である墨村家の長男として生まれてきたことに間違いはない。 「何をぼさっとしておるか!行くぞ正守!」 「はい、お爺さん」 気をつけて、と手を振る父に軽く笑って、祖父の後を追いかける。 祖父はもう門を出て、数十メートル先を走っている。 長い長い、天穴を握るその手には、方印と呼ばれる四角いあざがある。 ――選ばれたもの。 特に力があるわけでもないただの黒い四角が、その証だという。 どうにも、自分には分からない。 母が祖父に比べて劣っているとは思えないし、祖父が母より勝っているとも思えない。 すると自然、方印なんてものには実際何の意味もないということになると思うのだが、いずれにせよ、とにかく母は『正統継承者』にはなれないのだそうだ。 ――『正当継承者』。 力がある証拠でも、名誉の与えられる称号でもない。 その肩書きに一体何の意味があるのか、矢張り自分には全く分からない。 とはいえそれも、もしかしたら自分が『正当継承者』ではないからなのかもしれないが。 祖父の後について走る。 追いつけない、年齢にそぐわない俊敏さ。 子供の俺がいるから加減してくれているのだろう、しかしそれでも十分早い。 その若さは、もしかしたら正当継承者故のものなのかもしれないとも思う。 「急ぐぞ。また雪村のババァに先を越されてはならん!」 「はい」 「あのババァめ、今日こそ目にもの見せてくれる!!」 握り拳を震わせて、祖父は叫ぶ。 ほぼ毎日同じことを言っている気もするが、ほぼ毎日同じことを心に誓っているのだろうから、敢えて俺は何も言わない。 隣の家とは仲が悪い。 親達はそうでもないのだが、とにかく祖父達の仲が悪い。 家業を同じくしていることもあり、祖父は妙に対抗心を燃やしている。 雪村の御婆さんは、こちらは対抗心というよりも、単に祖父を軽く見て、あしらっている部分がある。 その分、祖父も必死になっているのだろう。 夜、仕事でよく雪村の御婆さんとは顔を合わせる。 祖父に向ける視線や言葉には棘があるが、それでもどこか信頼があるようで、だったら無駄に喧嘩しなくてもいいのにと、脇で見ているこちらは毎回不思議な気持ちになる。 けれど、彼女が自分に向ける視線はひたすら冷たい。 墨村だの雪村だのと、老人達は矢鱈と家に拘っている。 おそらくその為だろうとは思うのだが、それにしても、他人には向けない底の知れない冷たい目をしている。 別に俺としても、彼女に信頼して欲しいわけでも、子供だからといって優しくして欲しいわけでもない。 ただ、妖を見るような目で見られるのは、どうも居心地が悪くて仕方がない。 雪村には最近、赤ん坊が生まれた。 元気な女の子で、名前は『時音』という。 特に異常もなく順調に育っているようで、父が自分のことのように喜んで話してくれた。 その子の胸元には、方印と呼ばれる四角いあざがある。 祖父に言わせれば、雪村に負けたとか、後れを取ったとか、そういう認識になるようだった。 それもあってか祖父はここ最近、特に夜の業務に熱を入れている。 落ち着きがなく、いらいらしている所もよく見かける。 方印の有る無しは、どうにも俺が思うより重要なことらしかった。 そもそも、どちらの家にも方印が出ない代もあるという。 少なくとも母の代は、どちらの家にも出なかった。 自分にも、出なかった。 頭も人並み以上、術の才能があると認められている、自分にも。 だから祖父は、俺の代にはもう方印は出ないものと高をくくっていたらしい。 だから余計に、雪村の家に方印が出たのが驚きであり、また悔しくもあったのだろう。 校門に辿り着く。 自分が小学校を卒業したら通うことになる、普通の学校。 普通と違うのは、烏森にあるというただその一点。 見た目も、教師も、生徒も、中身も。 ただの学校だというのに、ここも『選ばれた』土地なのだそうだ。 夜の学校。 辺りは静かで、探りを入れても気配はない。 「雪村さん、まだ来てないみたいですね」 「うむ。では、行くぞ正守!」 「はい!」 まだ妖がいるという訳でもないのに、走っていく祖父につられて自分も走る。 昼過ぎに少し降った雨のせいか地面はぬかるんでいて、まだ脚絆を履きなれていない自分には少し走りにくい。 靴でもいいと父には言われたが、不恰好になるのでそれは嫌だった。 方印が誰にも出なければ、暫定的に、長男である自分が家を任される。 だから、毎日きちんと修行してきた。 烏森を守るのが使命だと、人々の命、使命の重さも肝に銘じた。 お前には才能がある、と祖父は言う。 自分は全く霊感のない父と、術を極めたような母と祖父しか知らないから、よく分からないけれど。 結界術には向き不向きがあって、俺は飲み込みも早く適正もあると。 祖父は言った。 ――なんでお前が正当継承者じゃなかったのか。 祖父は言った。 そんなもの。 そんなもの、こちらが聞きたい。 【了】 |
08/05/27・up |