何てことはない日だった。 その日は朝から晴れていたし、相変わらずジジイは朝っぱらから元気だったし、父さんの朝飯は美味かったし、弟は行儀良く朝食を食べていた。 兄貴も、いつも通り笑っていた。 その日俺はいつも通り、目ぼけ眼で小学校に向かった。 新学年になるといっても別に行く場所が変わるわけでも、そこにいる人間が変わるわけでもないから、別に新鮮な気分もない。 てっきり高校に行くと思っていた兄貴は、体調が悪いからとか何とか言って、制服を着ていなかった。 俺が靴を履いているときも玄関先で、居眠りするなよとか何とか言って笑っていた。 兄貴が自分から学校を休んだことはなかったから、それは確かに違和感といえば違和感だったのかもしれない。 そういえば家を出るときに、一度名前を呼ばれた。 振り返れば一言、がんばれよとだけ残して、兄貴は奥の座敷へ消えていった。 ただ、全てにおいてそこまで違和感は覚えなかった。 それでも。 その日学校から帰ったら、兄貴はいなかった。 別離 「あれ」 その日は始業式だったので、昼には家に着いた。 違和感を感じたのは、玄関先にある筈の兄貴の靴がなかったからだ。 父と弟の靴がないのは、おそらく二人で公園にでも行っているからだろう。 学校を休んでまで、兄貴が一緒に行く訳がない――。 廊下を走りすぐさま鞄を自分の部屋に投げ捨てて、急いで戻ると兄貴の部屋の襖を勢い良く開けた。 盛大な音が一瞬響いたが、それだけで、すぐさま辺りは静寂に包まれた。 部屋は普段通りと言えばそれまでだが、さっぱりしていて何もない。 先週に中学の教科書類も捨てていたように思うから、本当に何もない。 いつも通りの家具と机が、いつも通りに残されている。 僅かに引き出しの隙間が空いていた箪笥を開くと、半分程、服が抜かれている。 急いで取って返して部屋を出た。 人気のない家の中で唯一人の気配のした部屋へと向かい、力任せに襖を開く。 「おい、ジジイ!」 「なんじゃい突然」 予想通り、ジジイは居間に座っていた。 正座して、静かに茶を啜っている。 俺が怒鳴り込んできても怒鳴り返さないなんて珍しい――というよりも、今までなかったことだ。 何かがあったということだけは、もう明らかだった。 「兄貴は?」 俺は端的に、座りもせず部屋に踏み入りもせずにそれだけ言った。 黙って。 ジジイは茶を啜っている。 家族の異変があったというのに、平静を装った、その態度。 俺はほぼ無意識の内に足を進めて、ジジイの襟元を掴み上げた。 「兄貴はどこ行ったんだよ、ジジイ!」 「ええい五月蠅い!お前には関係ないことじゃろうが!」 「ない訳あるか!いいから言えよ、兄貴は、一体」 ジジイは静かに、いいから離せ話し辛いと言った。 仕方なしに渋々その手を放し、ジジイの脇に自分も座る。 ジジイは襟元を正して、居住まいを直し。 茶を一口啜ってから、湯飲みを置いて目を閉じた。 「正守は、家を出た」 「え」 「暫くは帰って来んじゃろうな」 「ちょっと待て!家を出たって、なんで。どこに」 「お前には――」 お前には関係ない、と。 俺の、そして兄貴の祖父はそう言った。 何か考える前に、つい殴りかかってしまった俺に非はないと思う。 結局返り討ちにされてぼろぼろになって、やっとのことで聞き出したのは、兄貴は術の修行をしに親戚――の、ようなものだと言われたが多分嘘だ――の所に行ったということだった。 単に術を極めるための修行なら、巻物だの秘伝だの、そして生きた手本であるジジイがいるこの地が、間流結界術を極めるのには適しているはずだろう。 それでも兄貴は家を出た。 兄貴に懐いていた弟は、帰ってすぐその話を聞くなり泣きだして、父さんは困り顔で、自分も悲しいだろうに弟を慰めていた。 ただ、父さんは何かあらかじめ聞いていた様だった。 ジジイは相変わらず、しかめっ面で茶を啜っている。 俺はとにかく居心地が悪い。 兄貴は家を出た。 理由なんて決まっている。 俺がいるせいだ。 父さんもジジイも、勿論そんなことは言わない。 弟は、多分まだ分かっていない。 俺の家では、母親も家を出ている。 それももう自分のせいな気がして、寂しさではない何かのために無性に泣きたくなってしまった。 【了】 |
08/05/28・up |