――手が。 他人の手が、己に触れる。 自分はと言えば、ただその手を見ている。見ているというよりは眺めている。 光源と言えば窓から射す僅かな月明かりのみだが、職業柄、人並み以上に夜目の効く自身がこれほど憎らしく思えるのも珍しい。 眼を閉じるのも癪に障る。 仕方なしに天井の木目に目を向ける。 不規則なその曲線を眼で追いながら、気を遣るため明日の予定を思い出し――。 ――冷たい。 もちろん胸より指先が温かい訳がないのだが、生理的な反応として僅かに震えれば、指の主が嗤う。 気を抜くと上がりそうな己の媚びるような声。 出すことよりも聞くのが嫌で、手の甲を押しつけて自ら口を塞いだ。 途端、胸元や脇腹をまさぐっていた手が急に俺の手首を掴んで引きはがす。 「声を殺すな」 ――冗談じゃない。 悪趣味め――と。 手を外され、結局喘ぎ声のようなものを上げながら心中悪態を吐き、瞳だけは確りと男を睨んだ。 我ながら、全く意味を為さなかったと思う。 逢瀬 例えば悔しいだとか、恐ろしいだとか。 そんな感情を抱けるような初々しさは自分にはない。 ただ行為をぼんやりと眺める眼、生理的反射的に反応する体、それとは逆に冷めていく頭。 こんな自分を相手にして一体何が楽しいのか――とは、考えても一瞬でやめる。 この男の考えることなど分かるわけがない。 そんなことに時間を割くのは無駄でしかないのだ。それに――もし万が一、分かってしまったとしてもそれはそれで憂鬱でしかない。 ――理解したくない。 爪先でなく腿でなく、腰でなくまた胸でなく。 腕でなく指先でなく、首でなく唇でなく眼でなく舌でなく――毛の先から脳の髄に至るまで、自分の全てがその男の存在そのものを拒否しているのを感じる。 ふと、裾を割り臍から下へと延びていた手が動きを止めた。 何事かと向けた視線が見開かれた黒眼に吸い込まれる。 「今日はまた一段と気が乗らないようだな」 「なら。やめ、ますか」 「止めて欲しいのか」 「別に」 「じゃあ良いだろう」 お前の気が乗らないなどいつものことなのだし――と。 言いながら、白い布を纏ったままの指が胸の突起をなぞる。 意志を持って触れているというよりは偶然掠っただけに近いその緩やかな刺激にもわずかに震える自分が憎らしい。 まるで自分ではなく、他の生き物のようだと思う。 「反射は嘘をつかないな」 「っ、それは、そうでしょう」 「ああ――そうか。こういうのを『体は正直だな』とでも言ってやるべきなのかな」 「いりませんよ、馬鹿馬鹿しい」 男は、そうかと然程残念でもなさ気に言って肩を竦めた。 外套を脱ぎ帽子こそ外しているものの、シャツのボタンは全て閉じられ何一つ乱れがない。 もしこの場を誰かに見られたとすれば、最早両の肩まで下がった着物1枚の自分は滑稽でしかないだろう。 「俺が消えたら、お前は追い掛けるか?」 「無道さんが、そうしてほしいなら考えますよ」 「嘘だな」 きっぱりとそう言い放ち、一瞬唖然とするこちらを見て笑う。 「おまえは自分に都合の良い時にしか俺を呼ばない」 「お互い様じゃないですか」 「違うな。立場も頻度も目的も――」 やけに緩慢な動きで白い指先が頬を撫ぜる。 二つの掌が包み込むように両頬に添えられ、僅かな光を視界を、息の届く距離まで寄った男の顔が奪う。 「お前が好きだよ、ぼうや」 「――嘘を吐くな」 「手厳しいな。嘘じゃないのに」 「本音でもないでしょう」 「気持ち良くしてやってるじゃないか。何が不満だ」 分かっていて聞いているらしく、その表情に戸惑いはない。 ――面倒な。 ひどい倦怠感に襲われながら、極力全身の力を使わないよう首だけを伸ばす。 男の薄く開かれた唇に自分のそれを押し当てて、合ったままの視線で威嚇をし。 そのままの状態で無理矢理口を動かし音を乗せる。 「気持ち良いのが一番の不満です」 正直に言えば、実に満足気に男は笑った。 【了】 |
11/03/06・up |