――憧れなんてものとは程遠い。



いつもいつも俺が覚えるのは劣等感だけで、兄貴がどう凄いかだのどの面で俺より優れてるかだの、考えようとするだけで鬱になりそうなことはまるで考えてこなかった。
背丈が違う年齢が違う才能が違う努力が違う――そもそもの土台が違う。
尊敬するかしないかといえば、それとは少し違う気もするが、するというしかないのだろう。

それでも、兄貴のようになりたいとは思ったことがない。 

別に兄貴の代わりになりたいわけじゃないから、当然と言えば当然なのだけれど。

成長すると、色々なものが見えてくるとはよく言ったもので。
成長すれば自然と自分もこうなるのだろうと思っていた兄貴が、久々に見ると思ったよりも大きく、けれどどこか小さくなったように見えた――とは。

言うべきではないのだろうなと思った。



憧憬



幾度目に帰ってきた時だろうか。
久々に見た兄貴は、どこか変わって見えた。
本人は笑いながら、父さんに、少し背も伸びたんだと言って笑っていたが、そんなことはあまり気にならない。
どうした所で成長期の自分の方が伸びているし、だから遠かった兄の背が、少し縮んだように感じたのも仕方のないことだろう。

ジジイは町内会の会合、利守は友達と遊びに行っているし、父さんもそれに付いていってしまったから二人しかいない。
勿論、だからといって顔を突き合わせている必要なんて全くない訳だが、どういう訳か兄貴がケーキなんて買ってくるものだから仕方なく相伴に与っている。

「――クソ」
「うん?」
「いや、別に。なんでもねぇよ」
「そう。――あ、どうだそれ、今月の限定商品らしいんだけど。おいしい?」

地方紙とかでも紹介されてる結構有名なお菓子屋さんでさ――と楽し気に話す。
興味はもちろんあるのだが素直に聞いているのも癪なので、できるだけ本人の顔を見ないように興味のない風を装いつつ、後でメモしておくかと考えてると兄貴が急に噴出した。

「――なんだよ、一体」
「いや、箸、止まってるなぁと思ってさあ」

箸じゃないなフォークかと一人で呟き、また笑い出す。
もし仮に――仮に、の話だ――本当に俺の箸というかフォークが止まってたとしても、年長者なら放っておいてくれればいいだけの話だろう。
――全く、嫌な奴――と、そこでふと

「兄貴」
「なに?」
「――何でもない」
「何だよ。術の一つや二つ、素直に聞けば教えてやるのに」
「違うっつーの!何でもないって言ってるだろ!」

ハテと首を傾げてこちらを見て、じゃあ何か、好きな女の子のタイプとかモテる秘訣でも聞きたかったのかと、にやつきながら尋ねてくるので、うるさいこの馬鹿兄貴――と、もう一度怒鳴った。
何かにつけて人をバカにするのも大概にしろと言いたい。いや、聞き入れられてないだけで、確か俺は何度も言ってきているけれど直らないのが問題なのだ。
落ち着いて、俺が再び気を取り直しケーキに手を付け始めたところで――で、何の用だったんだと、兄貴が今度は真顔で尋ねてきた。
異様なまでの切り替えの早さに一瞬驚いたが、まあ別に遠慮するようなことでもないかと、俺は素朴な好奇心から先ほどの続きを言うべく口を開いた。

「なあ、兄貴」
「なに?」
「兄貴には、尊敬する人とか、憧れてる人とかっているのか?」

兄貴――墨村正守という男は、少なくとも自分の知る限り尊大というか自信というか、とにかくそんな言葉の類を絵に描いたような男なのだ。
それはおそらくこの家だけではなく外でもそうなのだろうと思った。
だから、こいつは他人を尊敬したことなんてないのだろうなと思って、それをそのまま口に出した。
ただそれだけのこと。

それだけのことだというのに、言い終えた瞬間、悪寒が走るほどの気配が向けられたのを感じた。



「なんでそんなことを聞く」



表情こそ変わらないが、少し低く厚くなった声で不機嫌になったことだけは分かる。
圧倒的な威圧感を肌で感じながら、俺は少し後ずさり、慌てて手を振った。

「い、いや、どうでもいいだろ別に。なんとなく気になっただけで」
「いや、こっちこそ何でもない。悪かったな」

息の詰まるような空間はけれど、思いのほかあっさりと解けた。
兄貴は何事もなかったかのように湯のみに手を伸ばし、それを口へと運ぶ。
一体なんだったのかと聞いてみたいような気もしたが、先程のようにいつ何が兄貴の琴線に触れてしまうのか分からない以上、これより先の詮索はしないに限るだろう。

さっさと食って部屋へ戻ろうと決意し、先程よりスピードを上げてフォークを口へ運ぶ。
勿体ないのは分かっている。とはいえ、こんな状況ではもう味わっている余裕などない。
残り2、3口とうところでふと目線をケーキから上げて兄に向ければ、兄はこちらではなく庭の方を、そしてそのさらに向こうを眺めている風だったが、再びケーキに視線を戻す前にその兄貴が口を開いた。

「良守」
「なんだよ」
「いるよ」
「はあ?」
「だから。『憧れてる人』」

――嫌がってたんじゃないのか?

兄貴の方から話し出すとは完全に予想外で、おもわず呆気に取られていると、なんだ聞きたかったんじゃないのか――とあちらが逆に首を傾げた。
その動作があまりにわざとらしく腹は立ったが、たしかに相手の言う通り聞きたかった訳だから、ああと不満げに返す。
何を思い直して落ち着いたのかは知らないが、兄貴は先程とうって変わってあっけらかんとしている。
こちらがどうしてだの、どうしたものかだのと考えていると、兄貴にそれだけかと訊ね返された。聞いても良いのならと、気になったことを俺は正直に口に出した。

「どんな奴?」
「うーん、嫌な人、なんだろうなあ」
「嫌な奴って――」
「ああ、多分一般的に見てもそうだと思うんだよな。嘘吐きで自信家で、まあ面倒見は良いけれど外面が良いってだけで、飄々としてて、いつも人を小馬鹿にしたような態度をとるからすごく腹が立つ」

――それってお前なんじゃねえの。

思わず喉まで出かかった言葉を、俺は慌てて飲み込んだ。
話しながら相手を思い出しているらしく右上を見ていた兄貴が、慌てている俺に気付いたらしくなんだと言いた気にこちらを見たので急いで首を振り、何とかこちらからふる話題を考える。

「どうした、良守――」
「いや、な――なら、なんでそんな奴のこと尊敬してんだよ」

こちらがそう言うと、兄貴は一瞬――おや、といった表情を作った。
そしてとぼけた顔のまま、笑いもせずに続ける。

「難しいこと聞くねお前」
「いや何も難しくなんかないだろ」

呆れて言えば、そうだな、と言って顎に手を当てて。

「――まだ、人間な所かな」
「ギリギリなのかよ――」
「ギリギリだなあれは」

どんな奴のことを言ってるのかは知らないが、人間かどうかも怪しいような奴をこの兄がなんで尊敬しようというのかは全く見当もつかなかった。
こちらがまるで腑に落ちていないのが伝わったのか兄貴は、他にはそうだな――と言ってまた考えるような素振りをして、僅かな間をあけてすぐに、湯のみを手にとり口を開いた。

「あとはそうだな、飄々と傲慢な所とか、気に入った人間には優しい所とか」
「それは人間として尊敬する所じゃねぇだろ」
「――そして何より強いんだ」

眼を閉じて、茶を啜り。
湯飲みを置いた。

「――なあ兄貴」
「なんだ」
「強い、ってさ。尊敬することなのか?」

そう尋ねると、兄貴は一瞬不思議そうな顔をした後、何かを誤魔化すように軽く笑った。

「ああ――カリスマ性ってやつじゃない?」
「かり、すま…」
「何だ、知らないのか」
「悪かったな!」
「人を惹きつける力、ってヤツかな。自然と人が寄ってくる純粋な魅力、みたいな」

ふぅん――と頷いて、自分なりに考えを纏める。
人を惹きつける――魅力――人が寄ってくる――つまり――。

「教祖みたいなヤツってことか?」
「ぶ」

突然。
噴き出して大笑いをする兄貴に、思わず呆気に取られた。
ひとしきり笑って落ち着いたのか、茶を一口含んで、一息ついてから両腕を組んだ。
まだ少し引きずっているらしく時折肩が小刻みに震えている。

「き、教祖ね。っ、ははは、確かに胡散臭いかもなあ」
「いやだから、なんで兄貴はそんな奴尊敬してるんだよ」

兄貴は少し眼を見開いて、その後、わざとらしく腕を組んでうーんと唸った。

「さあ。やっぱそれがカリスマって奴なんじゃないの?」
「ふうん」

分かったような分からないような、どうにも微妙な答えだったが、聞き返してもこれ以上の答えは得られないだろうと分かっていたのでとりあえず納得したというように頷いた。
兄貴はそんな俺の態度を見透かしていたようで、くすりと笑い、良守には難しすぎたかなと言った。

頭を撫でようとする兄貴を制止させるために、うるせぇ、と叫んで。
残り数口のケーキを流し込むように口に押し込むと、俺は兄貴の部屋を後にした。






【了】
09/02/03・up