微風。 頬に感じたそれに、微かな違和感があった。 血の匂い。自分のものだろうか。 昨夜、同期のひとりに、お前は黒衣のロボットのようだなと言われたことを思い 出し、鼻をすする。戦闘の後は嗅覚が鈍っていけない。その代わりのように皮膚 感覚が鋭敏になる。それが苦手で、人の輪から外れるようにここに来たというの に。 気のせいだろう。 埃くさいだけの書物に囲まれているのだ。 奥書院の管理下にある土蔵である。 正守は、伝手を辿って記録室関係者から合い鍵を借りている。 常ならば、ここには書物の匂いしかしないはずだ。 かすかな違和感は、正守を当惑させた。 ざあ、と風の音が聞こえた。 天窓が開いている。 右手にある巻物を、反射的に握りしめる。筆記具の筆を留めた複写用である。 その握った掌の中に軋むような痛みを感じた。「仕事」で衝撃を受け止めた右手 が、疼いている。 今、確かなのは、この痛みと血のにおいだけだ。 しかし、辺りを見渡したが、気配はない。 人の気配はないが、厄介ごとの気配はする。 そういう第六感が自分の中に働いている。 いや、考えすぎだ。 虫干しすべき書物ばかりだから、誰かが空気の入れ換えをしようとして窓を閉め 忘れた、ということもあるだろう。 首を小さく振ってみた。 「気のせいじゃないからよく見てみろ」 「――――っ、」 心を見透かしたような、言葉。しかし、降ってわいたようなその言葉の主の姿は 見えない。 「ここだ、ここ。」 男は、文字通り『降ってわいた。』 正守の目の前に、宙吊りとなって。 とっさに息を詰めた。 手妻のようだ。 それが、男との出会いの第一印象だった。 「こんなところに通う人間がまだいたとは驚きだ。」 乱れたマフラーを巻き直して、男はそう言った。 今は、タロットカードのような宙吊り状態ではない。 白黒縞の柔らかそうなマフラーをしている。さっきまでそのマフラーが男の体を 木製の書架に捕まらせるようにして支えていたのだ。男がゆっくりと重力に従っ て下りてくる様子を見て、安堵の吐息を吐いた。巻き直したマフラーから煙草の 匂いが立ちのぼる。ショックで嗅覚が戻ってきたようだ。 「俺もそう思います。」 「昼寝するには良い場所なのだよ。」 男は、その場でへたり込み、今も戸惑っている正守を前に、既に昼寝の体勢に入 ろうとしている。自分もやるべきことをしないと、と思うが、昨夜の疲れがどっ と来たのか、巻物を広げる気になれないでいる。 「ここに本読みに来たのか?」 「そうです。」 「こんな場所、コピー機ないのにどうするんだ」 おまけに、冬はストーブもない。火気厳禁の土蔵だ。居心地がいいわけがない。 「複写した方が記憶にも残るのでそうしています」 ふふん、と男に鼻で笑われた。 優等生の答えだ、と男の目が言っている。 いや、感じられた。 こちらの心の動きに気付いたのか、男の笑みが深くなった。 名前は、と問われたので、墨村、と答えた。 「間流か。」 「そうです。よく知ってますね」 「俺ももう年かな。その目立つ黒衣で、気付くべきだった。」 「機能的ですよ、訓練や戦闘の時は。」 目の前の男の年を測りかね、敬語を使う。 若い男だった。 二十歳そこそこにも見える。 しかし、若くして家の当主と宿命づけられた人間がいることを識っている。その ときは、このように目の前の相手を年で判別できない場合の不都合には、気が回 らなかった。 しかし、博識ではあるようだ、と認識する。 「下の名前は何と言うんだ。」 墨村など、呼びにくいだろう、と言う男を、まじまじと見た。 名前。それが街頭募金のおまけでもらったステンレス製のバッチのように、気軽 に付けたり外したりできる類のものであったらどんなに気楽だろう、と思うこと がある。執着はない。したくもない。ただ、親がくれたものだと思うと捨てられ もしない。それだけ。 それが正守の心情だ。しかし、ありがたいことにそれを意識的に表明することを せずとも、正守の下の名前を呼ぶ人間は多くはない。周りは、結界術を操る人間 としての必要としていないからだ。それに、初対面の人間に対して自分から親し げに名字を呼び捨てにしてみると、依頼せずとも相手も自分に倣うものだ。男の 登場に驚いた余り、しらずしらず相手のペースにはまっていたことに、正守はや っと気付いた。 「なぜそこで黙る。」 俺が恥ずかしいだろう、どうしてくれると指さされた。 その指先の爪が綺麗に整えられていることに正守は好感を持った。 「いえ、俺の家の名前を知る人は、大概名字で呼びますから。」 「坊や、さては友だちが少ないだろう」 「多くはないです。仕事の付き合いですから」 「寂しいやつだなあ。」 「あなたは、おかしな人ですね。」 「坊やこそ」 「坊やなどと言わないでください。」 「だから、下の名前は何だと聞いているんだ。」 自分も若いくせに、というと、今度こそくつくつと。楽しそうに笑った。 「貴方の名前は?」 「無道だ。」 嘘だ。 とっさにそう言いそうになった。 無道、という男を知っている。正確には「見知っている」だが、そんなことは関 係ない。「不死身」の異名を取るその男を、1度きりだが、正守は遠目に見たこ とがある。 偽名使いのパターンはふたつだ。 自分のように、知られすぎた家名から逃げたい者。 そして、偽名のもとの名を持つ人間に憧れる者。 さあさあ、次はお前の番だと目を輝かせる目の前の男の佇まいは自信に溢れてお り、そのどちらにも見えなかった。俺の、人間を見る目はまだまだ発展途上だと しても。 「正しいに、守ると書いて正守です。」 「まさもり、ね。坊やは、自分の名が嫌いか?」 「そうですね、どちらかというと。」 正統でもないのに「正」の字を戴く自分の名は、ずっと重荷だった。 だから、はっきり言えば目の前の男の質問は、どうしようもなく答えにくい。 「じゃあ、お望み通り坊やと呼んでやろうじゃないか」 「望んでません。それに、若干恩着せがましいところがありますね」 「自分からですます口調の言い方をしておいて説得力がないぞ」 不快だ。 だが、男自身が不快というわけではない。 名前を言われるのは嫌いなくせに、強引に名前を呼んでくるくらいの積極的で社 交性のある人間の方がむしろ好感をもってしまうのだ。 俺は矛盾している。 無道の質問に応じながら、昔の記憶を引っ張り出した。 あれは大人数での作戦行動中だった。人数が足りないと駆り出されたそこで初め て目にした無道という男は、確かにマフラーをしていたし、帽子を被っている目 の前の男と背格好が似ていなくもない。ただ年齢が違いすぎるのだ。 正守は、知らない。 化け物染みた力でもってこの世に棲みつき、年を経るごとに老いから遠ざかる者 もいる、ということを失念していたこと。そして、己のルーツである開祖のよう な非常識な存在が、犬が歩けば棒にあたるという格言よろしくそこらに転がって いるはずがない、と結論づけた自分を、後で後悔することになることを。 【了】 |
10/10/25・up みやさんから頂きました! 絵茶の御礼と仰られていたのですが御礼を言うべきはこちらです!!!! 素敵なトークごちそうさまでしたもぐもぐ。 ふふふ無正の出会編なんて萌えるにきまってる有難うございます^^ ツンツンまっさんに悪戯をしたいMUDOさんの気持ちがよくわかります。 そして某さんの「みやさんサイト作ったらいい」という気持ちがよくわかります。 続き楽しみにしてますね!(にこっ) |