【手を伸ばしたくなる20題】 (配布元→http://lyricalsilent.ame-zaiku.com/) 真田主従で20題に挑戦。 幼少期捏造とかも有ったり。 各話の【了】をクリックするとTOP(ここ)に戻れます。 01:たよりない笑顔 02:追いかけるのはいつも 03:動けないきみ 04:つまずいた体(3の続き) 05:とらえてみせよう(4の続き) 06:希望を願う その姿 07:手を繋ごう 08:枕に埋めた額 09:月* 10:傷ついた猫によく似た 11:重いものを乗せた肩 12:はやく! 13:きのうみた夢 14:虚空へ消えた言葉 15:髪、かわかしてあげる 16:迷う視線 17:満たされない欲 18:果てが見えない 19:夜明けの地平線 20:行こう ______ 01 よく笑っているな、と思う。 自分もよく笑うと言われる方だが、苦笑等も含め時間的に見れば、確実に自分よりも笑っている。 いつも浮かべる、その笑顔は知っている。 その笑顔に覆われた感情はいつもきちんと動いていることも、少なくとも自分は知っている。 会話する時も戦う時も果ては情事の際にまで、佐助は笑っていることが多い。 「どうしたの、旦那。眠れない?」 「否、」 そうではないと否定しつつ、こちらに背を向けて寝転がっている佐助の胸に手を回した。 先程までの行為で少し上がっているとはいえ、それでも自分よりはかなり低い体温に安らぐ。 佐助の体温。 幼い頃は温かい方が良いからもっと食えだのと我侭を言ってみたものだが、成長するにつれ、どちらかと言えば華奢な類だと思っていた佐助が割合良い体をしていると知った。 要は無駄な肉がついていないだけなのだ。 低体温は体質的なものだろう。 「佐助、笑え」 「へ。何だって、突然」 「いいから笑え――、」 命令だ、と結ぶ。 雰囲気も糞もあったもんじゃないねとぼやきながら浮かべる、苦笑。 「今、笑ってるけど。これで良い?」 「厭だ」 「あ、やっぱり」 困ったものだ、とでも言う様に肩を竦める佐助はどこか楽し気で。 こちらの言いたい事など分かってもいないくせにと、少し腹が立った。 腕に入れた力を強めて引き寄せる。 眼前に来た相手の首筋に、歯を。 「――ッ、何すんのさ!」 「五月蝿い」 うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。 お前はいつもそうやって逃げるのだ。 俺は気付いているのだからな。 気付いていて、気付かぬ振りをしてやっているだけなのだからな。 ――今の、所は。 それらのことを――気を使って言わずにいてやる事共を――、言ってしまえば、佐助はどんな反応をするだろうか。 泣くだろうか逃げるだろうか怒るだろうか喚くだろうか。 それとも。 またそんな笑いを浮かべるのだろうか。 ついた歯型を舌でなぞる。 わざと音が出るように舐め上げれば、軽く息を吐く声が聞こえた。 静止しようとする声を無視し、そのまま舌先を耳元まで上らせる。 「ん、俺、明日早いんだけど?」 「才蔵にでもやらせれば良かろう」 「誰がその命令すんのさ」 「真田忍軍はそんな気の利かぬ連中の集まりか」 「あのね。そういうことすると後で俺が気まずくなるんだよ」 不安になるのだ。 全て偽りであるのかもと、想定せずにはいられない。自由に見えるその表情の内、果たしてその何割が自然な感情の発露だというのか。 おそらく既に佐助自身にも分かっていないだろう。 あまりの器用故に、不器用になってしまった良い例だ。自分を御しているつもりで自分というものを見失っている。 だから。 自分を隠しようのない必死な様を見たい。 ――もっと、もっと。 この行為によって見られるものも、全て嘘偽りかもとは、冷静に考えればそう思う。 そうは思うが、それでも。 熱っぽい眼や上気した肌や、その唇や腰や足が。 己に与えてくれる充足や安心や、そして高揚は決して否定できないもので。 「そのような事、俺が気にならぬ様にさせてやればいいのだろう?」 驚いて眼を丸くした、佐助の下肢に手を伸ばし。 【了】 ______ 02 「幸村様ああぁ!」 響き渡る兵の声にしかし返答はない。 勿論周りで聴いている第三者も、おそらくは言っている当人すらも殆ど期待など持っていなかいため失望はしないが、とにかく焦燥はつのる。 はるか上空から様子を伺っていた佐助も片手に握る愛鳥がそろそろ疲れてきたのを感じ、適当に、目に付いた枝に降り立った。 ――不覚。 己の失態だ――と、佐助は後悔し、その薄い唇を噛みしめる。 戦場での幸村が自身を見失うこと、敵に向かって行ってしまうことなど、一番多く傍で戦ってきた佐助には既に常識、当たり前のこと。 それを未然に防げなかったことに――そんなことは佐助が気付いて後は、させることはなかったのに――佐助は己を呪った。 本来は偵察如き、忍軍の長である佐助が行かなくとも、誰かに任せれば済むこと。佐助がそれを他にさせなかったのは誰かに任せるより自分で行った方が確実で早いからだが、だからといって佐助以外に出来ない仕事ではない。 長という立場にありながら、佐助は人をうまく使うということが兎に角不得意だった。 幸村が、単身敵地である山林に入ってしまった――と。 佐助が己の部下から聞いたのはつい半刻前。つい半刻と言ってしまえばそれまでだが、人が疲弊しきるのにそれは十分すぎる時間である。 そして勿論。 人が死ぬにも、十分な。 ――まさか、死ぬなんて事はないだろうけどさ。 佐助とて幸村自身の強さと、そして悪運の強さはよく知っている。死ぬことはないだろうというのは気休めではなく、幸村が雑兵相手に死ぬなど実際に考えられないだけだ。 ただ、考えられなくとも可能性はある。 それに、何より。 ――人間、なんだから。 思い出し、佐助は余計に腹を立てる。 いつもいつも、自分は追いかけてばかりだ――と。 先陣を切るだの一番槍だの、そんなのは敵数を単に減らす為、将の片腕辺りの人物、つまり己のような者のやる仕事で。決して幸村の様な、一国一城の主ともあろう者が、軽々しく行うものではない。 もちろん幸村が信玄のために働いていることを考えれば幸村とて副将のような扱いであり、片腕であるのに変わりはないのかもしれない。だからといって、それは真田隊としての役目であって幸村個人に当てられた仕事ではない。 少なくとも幸村は兵でなく将だ。多くの命を預かる立場にある人物なのだ。 死んではならない、そう易々と命を危険に晒してはならないのに――と、佐助は心配を通り越して苛々とする。 佐助はそもそもが、逃げた敵将を追うにしたところで、慣れもなく知識もない山林に一人で足を踏み入れるその無謀さが赦せない。せめて自分に知らせてくれれば補佐をすることも出来た筈だし、自分でなくとも、誰か連れて行くことくらい出来た筈だ。 ――それを。 幸村が単独で勝手な行動をすることの多い理由は、佐助とは違う。 違うというより、佐助は理由があるが、幸村は理由がないのだ。とにかく敵を追うことに集中するあまり、突出する。誰にも言わずただ身体を動かすから、一人になる。 味方を信頼していない訳ではない。ただ感情――というよりも、衝動にまかせて行動しているだけで。 それが分かっているからこそ、佐助は余計に不満が募る。 自分の力不足だというのならまだ諦めもつく。そうではなく、幸村が戦場で己を頼ろうとしないことが佐助は気に入らない。 佐助が誰のために力をつけ、働いているか。どう扱われれば喜ぶか。その所を、幸村は全く分かっていないのだと思うからだ。 「――ったく。どこで何してんのさ、旦那」 呟きながら、考える――見つけたら、まず何と言ってやろうか、と。 ――『勝手なことしないでっていつも言ってるでしょーが』 ――『無事だったから良い様なものを、もし何かあったらどうするんだ』 ――『皆に心配かけて』 ――『この、馬鹿』 ――まぁ、どうせ――。 ガサリ、と。 まだ遠く、弓でも届かないであろう距離に気配を感じ、佐助は身構えた。 ガサリ、ガサリ。 無遠慮に、配慮など無く音を振りまくその相手に佐助は嫌と言うほど覚えがある。 そう思った瞬間に、木々を渡り、音の方向へと進み始める。 緑の隙間に見えた赤に、足取りもより早まって。 「――旦那!!」 「おお、佐助!」 悪びれもせず、精一杯の喜びを眼に。 屈託ない笑顔で走り寄る幸村に。 佐助は躊躇無く、力任せに拳骨を食らわせた。 まともに受けて蹲る幸村からは見えない、その表情は寄った眉根に反し笑っていて。 ――どうせ結局、赦しちまうんだけど。 起き上がった幸村に、佐助はくどくどと、先程考えた小言を浴びせて。 【了】 ______ 03 「――佐助殿が――」 よく通る声の、見慣れた伝令兵。 けれど佐助と言う名以外の部分は、その時、幸村にはよく聞きとることができなかった。 03 ――馬鹿な、そんな。 初めの内は思うように動かなかった足が、段々と速くなっていく。 もちろん今の幸村にはそんな自覚などない。 何を考えているのか自分でも分からないほどに混乱しているのに、ともかくも、身体だけは黙々と真直ぐに動き続けている。 時折こちらに向かって話しかけてくる者もいるようだが、その声は幸村の鼓膜を僅かに揺らすだけで、その意識に介入することが出来ずただ霧散する。 戦も決着が付き、負傷した兵の手当てや死者、失踪者の確認、そして功績や恩賞の振り分けをするために皆が慌しく動いている陣の中を、割るようにして歩いていく。 周囲の者も尋常でない幸村の様子に一度は気をとられるが、戦の高揚にまだ囚われているのだろうと判断して自分の身を守ろうと警戒する者、進む方向から幸村の目的を察し自身の作業に戻る者など、誰一人として幸村を留める者はいない。 大体が、本気の幸村を留めることの出来る人物が軍に2人しかいないとなれば、それも当然。 さしたる障害も無く、幸村は歩き続ける。 ――佐助。 幸村は脳の中で一度、佐助の名を呼んだ。 ――佐助、佐助。 ――佐助佐助佐助佐助――、さすけ。 堰を切ったように、脳内で流れ続けるその名前。 幸村は出陣前、つまり最後に見た佐助の姿と、そして聞いた声とを思い出す。 『ねぇ、旦那』 声は映像と共に流れ、幸村の中で、一つの像が形を成した。 額当てを外し、いつもの暗い忍装束でなく、ごく簡単な軽装で、佐助は柱に寄りかかっている。 顔は微かに笑んでいて、柔らかい物腰で、軽い口調でそう話しかけてきたのだ。 その正面に、幸村は座っていた。 意識的にではないが、意識しても直せない程度には、きつく手を握り締め、顔を強張らせて。 畳から顔を上げ目を移し、なんだ、と聞けば、佐助は苦笑した。 洩れる息の音がしたのを、幸村は覚えている。 『緊張してるね』 そうかもしれぬ、と返す。 相変わらず笑みを浮かべる佐助に、気恥ずかしさを隠すため、お前は如何なのだと強めの口調で問うた。 『俺?やっだなぁ、俺には今更過ぎるっしょ』 旦那と違って、いつも死ぬか生きるかで仕事してんだから――、と。 仕事が存在理由なのだから殺すのも殺されるのも慣れていると、一際に笑って言う。 返答に窮した幸村が眉を顰めれば、思い出したとでも言わんばかりに、ああ、と声を出し。 『そうだ、旦那。俺がもし動けなくなったら』 唐突な切り出しに、幸村は驚いて目を見開く。 佐助は静かに、笑って続ける。 『使い物にならなくなって、それでもまだ生きてたら』 『ちゃんと』 ――ちゃんと。 ここで幸村は、眼前に迫る比較的小さな陣に、意識を引き戻した。 「――佐助」 陣幕を捲る。 或いは手当てを受け、或いは自ら手当てをする負傷者をぐるりと見渡す。 陣幕の隅、見慣れた明るい色の髪に、半ば無意識で足が吸い寄せられる。 「佐助!」 「ああ、旦那」 負傷者の陣に相応しくない怒鳴り声に顔を上げた瞬間、赤い甲冑を着込んだ負傷兵の中でも異彩を放つほどの紅が、佐助の目を引いた。 佐助は薄布一枚ひいただけの地面に座らされ、手当てを受けている。 手当てと言ってもそこは戦場、ぞんざいなもので、骨の折れた左腕を添え木で固定され、捻って筋を切った左足はぐるぐると巻かれた布で無理矢理固められているだけである。そこかしこの切り傷や擦り傷も水で洗っただけで、風が吹く度にひりりとする。 勝手に此処へと運ばれてしまったがために、渋面ながらも、佐助はそんな一応の応急処置を受けた。 普段であれば、このように兵のような扱いを受けるのは佐助の望む所ではない。 戦忍とはいえ忍は忍。 忍は忍らしく隠でありたいものだと、少なからず佐助はそう思う。 少なくとも、普段の軽い調子と余裕から言って、こんな場所で手当てを受けるなど決まりが悪くて仕方がない。 それでも大人しく運ばれて治療を受けているのがなぜかと言えば、佐助自身半身がやられて身体が思う様に動かなかったことと、そして幸村が、救護係の者に佐助の治療を特に命じていたからこそ。 とはいえ、佐助は据わりが悪いながらも、そういう態度を外に出すと余計に据わりが悪いと思い、可能な限り普通に振舞っていた。 「どうしたもこうしたもあるか。一体――」 「へへ、ちょいとドジっちまってね。旦那には恥ずかしい所見られちゃったかなー」 少し間延びした声で、佐助が暢気さを装いながら言う。 佐助の負傷は幸村の眼にも明らかに軽いものではない。 「先日の、問いだが」 「へ?ああ、あれね」 「俺は――」 「いいよ、旦那。俺が悪かった」 「俺は、俺はな、佐助――」 「旦那!」 少しではあるが声を荒げて、佐助が幸村を制止した。 「聞きたくないんだ。ごめん」 そう言って、手当てをしていた兵が止めるのをも制し、ふらつきながらも佐助は立ち上がる。 辛そうに眉が歪むのを見、幸村が佐助に手を伸ばす。 「無理をするな、佐助!」 「無理じゃないさ。なぁ、旦那」 ――少し歩かないか、と。 言って佐助は、するりと陣幕の外に消えた。 幸村はそれを慌てて追いかける。 ※※※ 『――ちゃんと』 『ちゃんと俺を殺して、それから』 『それから先、一人で』 『ちゃんと』 『ちゃんと生きて、そして』 『一人でちゃんと死ねるのか――』 【続】 ______ 04 ※※※ 斬っているのが人か否かなど、そんなことは考えない。 考えない方が良いだろうし事実として考えている暇はない。 動くもの、己の邪魔をするもの、味方の邪魔をするもの。全て排除しなければこちらがやられる。 勿論、人の命に優先順位など無いだろう。魂とかいうものが全ての生き物に宿っているのだとすれば、虫蛄にしたところで尊ぶべきものなのだから。 自分とて命の重みとやらに価値をつける気はないが、少なくとも、個人的に生かしたい人間の順序はある。仁義忠孝、そういった観念を除いたところでそれは変わらない。 変わらなくなってしまった、といった方が正しいだろうか。 目の前に躍り出た黒が、己の腕を振り上げた瞬間に赤く染まった。 悲鳴もなく倒れた影の後ろから、また新しい影が寄って来る。 人。 人、人、人。 ――殺している。 ――殺している! 今更、自分の中で誰かが叫んだのとほぼ同時だろうか。 視界に動くものが無くなり、辺り一体の敵兵は一掃したかと溜息を一つ。 腕を振り、武器に付いた血液や異物を軽く払った。 ぱたた、と。 新しい染みが地面に浮かぶのを視界の端に認めつつ。 視線の先には、空があった。 出陣前に、主と共に眺めた空である。 今こうして自分が見上げる空を、主も紅き地に立ち見ているだろうかと――その時に見た幸村の表情を思い描く。 最後に見た我が主君はどこか、遣る瀬なさを湛えている風だった。 それが何故だか、自分にはさっぱり分からなかったのだが。 ――――――嗚呼。 ――駄目だ、戻らないと。 思い出したように振り向けば。 急激な熱風とともに、目前に火炎が迫っていた。 ※※※ 「俺、さ」 くしゃり、くしゃり。 踏み締められる度に鳴る枯葉が柔らかく、歩き易い。 佐助はふらりふらりと、よろめきながら歩いている。 一歩一歩重心が完全に移動しているようで、後ろに付いている幸村から見れば危なっかしい足取りに違いないのだが、幸村にはそれが半ばわざとであると分かっている為、手出しも口出しもしない。 ただ黙って、数歩後を付いて歩く。 「いざ死ぬかもって時に」 ――身体が熱かった。 死ぬかと思った――否、死ぬと思ったのだ。 腕が焼かれ、足が焼かれ、もし生きていても最早使い物にならない有様に違いないと。 その時佐助は確かにそう思った。 ――それなのに。 「生きてたいって思ったんだ」 くしゃり。 「ひょっとして、誰か助けに来てくれないかとか」 くしゃり。 「旦那が」 くしゃり。 「旦那の顔がさ、浮かんじゃった訳だよ」 くしゃり。 「ほんと笑えるね。たかが忍が、主が助けに来てくれるかもとか、そんな」 「――佐助」 咎めるような微妙な棘のある声で呼び止められるが、佐助はそれには反応せず、同じ調子で歩き続ける。 「笑えるよね」 「佐助」 「笑ってよ」 「佐助」 「笑いなって」 「佐助」 「笑ってくれ――頼むから」 流れるように進んでいた佐助の足がぴたりと止まるのを、幸村は見た。 「それでやっと救われる」 振り返り、佐助は幸村を睨んだ。その眼に光るものを見つけて幸村は開き描けた口を結び直す。 佐助を見る幸村の眼も険しい。 何も言わない幸村に、佐助は堰を切ったように話しだす。 「俺は先に死ぬんだ。それはどう足掻いたって変わるもんじゃないし、旦那だって実際、否定する気は流石にないだろ」 「それは――否、しかし」 「いいから。俺はさ、今まで足手まといになる位なら死んだ方がマシだって、ずっと思ってたんだ。今だってそう思ってる。だからね、死ぬなら旦那の全っ然見てないとこで勝手に死ぬか、旦那の手に掛かって死ねたら良いなって思ってた訳さ」 「さ、佐助!何を――!」 急に慌てる幸村に、佐助は僅かに笑って手を振った。 「はいはい、いいからいいから。まっ、旦那にとっちゃ迷惑極まりない話かもしれないけどね。自己満足最優先で、忍らしく主君の為に迷惑かけないようにすっと消えるか、そうでなけりゃ、最後に見るのは真田幸村の顔であって欲しかったってことだ」 「勝手なことを申すでない!俺は、」 まぁまぁ、最後まで聞きなさいってと軽口で幸村を宥め、佐助は続ける。 「まぁそんなことをずっと自分については考えてたんだけどさ。俺はね旦那、幻覚だけど一瞬旦那の顔見て、ああまだ死ねないって思ったんだよ」 「それは――」 俺のために死ねぬということかと尋ねる幸村に、佐助は何も答えなかった。 笑顔で佇む佐助に、実に平坦な声で、違うのだなと幸村は呟く。 今知ったと言うよりも、当然のことを確認するように。 「俺が死んだら確かに旦那は悲しんでくれるだろ。でもそれもいつか薄れる――いやさ、これは旦那が薄情だとかそんな話じゃなくて、一般的に言ってね。いつもいつでも誰かの死を引き摺って生きるのは、これが案外難しいんだ。俺はちゃんと一人で生きるだけ生きて死ねるかって聞いたのはそういうことさ」 「佐助」 「旦那が、どう答えるかが聞きたかったんだ。普通は相手のことを想ったら答えは肯、大丈夫だ安心しろってなるだろ」 佐助は一際に、にこりと笑って。 「俺はね、ただきっと其れが怖かったんだ」 【続】 ______ 05 佐助の声の調子は軽い。 雰囲気にそぐわぬ態度に、幸村は眉を顰めた。 そして口を開き、無理をしているのならば――と言いかけて、口を噤む。 無理をしなければ、佐助はおそらくこのようなことを言わない。 というよりも、言えないのだ。 察すれば察するほどに動けなくなることに気分が悪いが、目の前の男はそれよりもさらに居心地が悪いことだろうと幸村は思う。 「だから、確認しておきたかった。旦那が即答してくれれば諦めるなり、その言葉に縋るなりしようと思ってた。でもその反面で、答えは聞きたくなかったし答えたくもないだろうから答えないでくれればいいとも思った」 「――そうか」 「で、どうよ旦那。今聞いたら答えてくれる?」 怒ったような表情をしていた筈の幸村が、ふと表情をなくした――ように見えた。 佐助はへらへらと笑顔を浮かべている。 実際には少し歪んでいたかもしれないが、少なくとも自分では、笑顔というものを浮かべているつもりでいる。 「お前は矛盾ばかりだ」 少し肩を震わせて、幸村が言った。 表情はまるで何を考えているのか分からない。 それでも瞳ばかりは真直ぐに佐助を捕えている。 佐助の顔からも表情が消えた。 表情をなくしたというよりは、固まったと言った方が近い。 「肯と答えようと否と答えようと、喜びも悲しみもするくせに。どうしてそのようなことを俺に態々尋ねるのだ」 「そんなの、別にどうだっていいだろ。旦那には関係ないさ」 「関係がない訳があるか」 「関係あるなら関係あるって言い切れるその根拠が分からないね。そもそも、たかだか雇ってる忍一人のことなんざ、あんたに関係あっちゃいけないんだ」 「何故だ」 「何故って、それはそういうもので、」 「何故だと聞いている」 ――くしゃり。 落葉を踏みしめて、幸村の足が前に出た。 佐助は動けない。 幸村から視線が外せなくなっている。 「お前の作った常識は要らない」 くしゃり。 「意味のない自責に付き合う積もりもない」 くしゃり。 「俺の存在が既にお前を責めているならそれはもうそれでいい」 くしゃり。 「それでも俺に手放す気もはなければ、お前とて手放される気もないのだろう」 くしゃ、 「佐助」 腕が伸びてきたと思った瞬間に、佐助は痛む体ごと抱きすくめられる。 走る苦痛にくぐもった声で呻くが、幸村に力を緩める気配はない。 胸元から伝わってくる暖かさに胸が詰まった。 「旦、那」 「馬鹿者。なぜそうやって俺の嫌がることばかり考え付く」 「俺は」 「聞かせたくない言葉を吐くな」 「だん――」 「言っておくが」 背中に回していた腕を肩に移動させて、幸村は僅かに身を離して佐助の眼を覗いた。 「諦めろ」 何を、と。 言いかけた佐助の台詞が形になる前に、幸村が続ける。 「お前が望んでいる『結果』は全てお前に苦痛をも与えるのだから、何の解決にもならぬ」 「でも、さ」 「でももなにもあるか。お前が苦しむのは嫌だと何度言えば分かる」 「っ、仕方ないだろ。今のままだってどうせ嫌なんだ」 「だから」 佐助の頭に手を置いて、一撫でしてから。 幸村が妙に神妙な顔で、口を開いたかと思えば。 「つまりお前が何も考えられなくするか、お前の望むものが変わるようになるまで、お前を俺に惚れさせるしかないのだろうな」 「――は?」 どこをどう考えるとそうなる大真面目にそんなことを言うものじゃないだろう馬鹿はどっちだふざけるなよ全く何言ってんだか――。 ひとしきり文句を浮かべたが、そのどれもが口にするには馬鹿馬鹿しくて、結局佐助はあからさまな苦笑いをした。 言い返せば、また佐助には意味の分からない論理が返ってくるだけなのだから。 「あっそ。そりゃ精々頑張って下さいませな」 「な、無理だと思っているな佐助!」 「あら、分かっちゃった?」 あははと笑いながら、佐助は幸村の手を抜け歩き出す。 呼び止める幸村に振り向きもせず、そろそろ戻らないと皆心配しちゃうでしょと返し、歩みを速める。 後ろから小走りで追いかけてくる気配と音とを感じながら、佐助は自嘲気味に笑った。 ――結局、いいようにやり包められただけじゃないか。 結局佐助は幸村から質問の答えを得ていないし、佐助の思いが変わることもなく、相変わらず死ぬのなら――と考えていることに変わりはない。 そしてそんな己を気持ちが悪いと蔑んでいることも。 幸村からすれば要するに考えること自体を止めろということなのだろうが、そんなことは佐助に意識してできるものではない。 ただ――心に残りたいと願うほどには、願ってしまうほどには、捕われている己の気持ち自体、佐助にとっては既に不満であることをきっと幸村はそこまで分かっていないのだ。 ――本当に、俺がそうなっちゃえば楽なんだろうけどね。 幸村が言うように、何も考えず求められるほどに夢中になってしまえば、惚れ込んでしまえば、楽と言えばまぁ楽なのだろうとも思う。 ただ、それこそ自分から意識してできるものでなければ意識できるものでもない。 ――頑張って下さい、か。 冗談でなくそうなったなら愉快で仕方がないが、今の自分がそれを想像すると、腹を切りたくなるような想像図しか浮かばない。 結局のところ、現状維持が一番なのだろうなと、ぼんやりとした結論を出してから。 「あんたのその強さが怖いんだ」 振り返って、口の形だけでそう言った。 幸村が不思議そうに何と言ったのか聞き返してくるのを笑って流し、佐助は陣幕を捲くり再びその内へと入っていった。 【了】 ______ 06 一陣の風とともに、真白の、僅かに色付いた無数の花弁が宙を舞う。 美しい――と、太めの枝に寝転がりながら、佐助は思う。 と同時に、花は散ればこそ美しいのだと、昔誰かが言っていたのを思い出した。 物心つく頃には染まっていた家業のせいか最近になるまで花など愛でる時間も無かったし、そもそもそんな趣味も習慣も感性もあまり持ち合わせていないのだが、これは確かに『美しい』というべきものなのだろう――と、佐助はそこまで考えて首を振った。美しいという言葉も感覚も、そんな断りを一々入れるべきものではない。 考えてしまう時点で自分は鑑賞に向いていないと思うものの、それでも美しいと思っていることに間違いはないのだからと、言い訳のように心中で呟いた。 佐助はあまり花見の名所と言われる様な場所には魅力を感じない。 花弁が花弁と把握されないような、一つ一つの木や花に意味や存在が感じられないような場所では何を愛でているのか分からない。 それに、人が多い。 純粋に佐助自身、人が多い場所が苦手というのもあるが、自分に見られていることで意味を持てるような花でないと佐助は”自分が”見る必要はないと思う。 見る必要が無いのなら見ているだけ無駄だ。 自分以外の誰かが見て愛でていればいい、その方が花にとっても余程良い――。 否、だからそういった問題ではないのだと、再び軽く首を振った。 「いやぁ、綺麗だねぇ」 自然に口をついて出た言葉に嘘はない。 ただ、独り言ではない。 花に対する賛辞は心中で既に何度か言った。 木に耳がある訳はないのだから、態々口に出す必要はない。 佐助が言ったのは、別の対象に向けてで。 「そう思わない?旦那」 頭の後ろで手を組み、足を組んで悠々と寝転がったまま、下を見ずに言う。 幸村は何故か叱られた子供の様に一瞬肩を揺らした後、流石だな、と言って肩を竦めて笑った。 「そこで何をしておるのだ、佐助」 「見て分かんない?ちょっと休憩」 「休むなら床で休めば良かろう」 「いやぁ、そういう訳にもいかないっしょ。そう長い時間休んでられる訳じゃないし、俺様が熟睡してちゃ周りに示し付かないしさ」 まぁそれでも、仮眠くらいは取りたい訳さ――と、そう結ぶ。 少しまだ肌寒いが、それでも日光の当たる場所は暖かい。 忍装束は寝転がるにも眠るのにも全く向いていないが、それに関しては佐助は慣れているので今更問題にはならない。 休めるときに休むか――と、瞼を閉じて。 「佐助」 主君の声が聞こえる。 佐助はこの声に呼ばれることが好きだ。 段々と遠くなっていく意識の中で、嬉しく思う時も気恥ずかしく感じる時も、また恐ろしく感じる場合もあるその声を聞きながら。 「佐助?」 「佐助、眠ったのか?」 「おい、佐助」 「佐助」 「さす――」 「ちょっ、何昇ってきてんのさ旦那!!!!」 寄って来る気配と近くで聞こえた声に驚いて下を見れば、幸村が木を昇っている所だった。 幼少時代はよく昇っていたとはいえ、やはり慣れていないのと体が成長した為か、動きが一々危なげである。 「おい、あぁもう、危ないから!早く下りた下りた、怪我する前にやめときなって」 「五月蝿い!大丈夫だ」 一体何を根拠にそんな自信があるものかと思うのだが、今の幸村に何を言っても無駄かと思い直し佐助は口を噤んだ。 ただ幸村の身を案じながら――とはいえ子供ではないのだから万が一木から落ちた位でどうということもないだろうとも思いつつ――、佐助は再び目を閉じる。 眠気に耐えられないという訳ではない。 ただ目を閉じて、華々の隙間から漏れる日の光を浴び風に踊る桜のざわめきを感じていたかった。 「っふ、っ!見ろ、昇りきったぞさす――…」 「シーっ」 「佐、助?」 「今良いトコなんだから、邪魔しないでよ、ね」 「『いいとこ』?」 「そ。良い風が吹いてきたから」 耳を澄ませばざぁざぁと、遠くから木々の声がする。 幸村は佐助の言わんとするところを把握しかねて首を傾げた。 佐助は黙って木々の音色に酔っている。 「旦那も昇ってきて、ゆっくりしたら?そっちの枝なら乗っても大丈夫だから」 「う、うむ?」 促されるままに身を乗り上げ、佐助の斜め下辺りの枝に幸村が乗る。 気持ち良さ気に寝転がる佐助を見、急に満足気な顔をして、足を伸ばし寝転んだ。 ※※※ 「旦那?」 すぅ、と。 半刻ほど後に呼びかければ、ただ寝息だけが聞こえて。 幸村は決して寝相は良くない。 このまま放っておいて熟睡し出せば確実に落ちるなと、心配半分、見てみたいという好奇心半分に佐助は考え、笑う。 仕方ない抱えて下りるかと溜息を吐いて立ち上がり、ふとしゃがみ込み、足元の木肌に触れた。 「ごめんね、重たかったでしょ」 桜サン――と。 決して応えぬ木に向かって呼びかける。 「こうやってゆっくり見てあげられる機会も、少ないんだけどさ。実は毎年楽しみにしてるんだぜ?」 今年は多分もう来れないけどさ、と続けて、慈しむように優しく、佐助は木肌を僅かに擦る。 次の年もその次も、佐助はこの桜の花弁を見られるかどうか分からない。 しかし、此処で必ず、毎年必ず咲いていて欲しい理由が、佐助にはある。 「上で寝てるその男とね、約束してるんだ。いつか望みが叶ったら、あんたの下で酒を酌み交わす、って――」 ――だから。 だから来年も再来年も綺麗に咲いていてくれよと、口中で呟き。 佐助は幸村の方を見て――。 「あ」 佐助がそう言うのと、ほぼ同時に。 何か重たい物の落下音と幸村の張り上げた慌て声が、辺りに軽快に響き渡った。 【了】 ______ 07 ______ 08 ______ 09 「佐助。佐助はおらぬか」 「はーいはい――、ここにいるよ」 寝巻きのまま縁側に腰掛けた幸村の前に、佐助は音もなく降り立つ。 そもそも佐助としては、自室の前とはいえ無用心にも程があるだろうと注意するために見ていたのだが、流石早いなと純粋な笑顔で賛辞を受け、言うに言えなくなってしまった。 膝立ちのまま、――お互いに困ったものだと頭をかき、幸村を見る。 「どうしたのさ。眠れない?」 「月」 月がどうかしたかと聞きながら、佐助は立ち上がって、幸村の隣に腰を置いた。夜風が頬をふわりと撫ぜて気持ちがいい。 幸村はまっすぐに月を見ている。佐助もその視線を追ってみるのだが、そこには何の変哲もない弓張月があるだけで、佐助は尋ねる代わりに幸村の顔を斜め下から覗き込んだ。 そうしてただ座っていたと思えば不意に、幸村が月から眼を背けぬまま、天に手を伸ばした。 「どうすれば月に手が届く」 「は?」 予想外の返答に、佐助は思わず間の抜けた声で返した。 言いたいことが分からず、空を飛びたいのかと聞けば違うと返され、触ってみたいのかと聞けばそうではないという。 佐助は少し考えて、それからああ、と、ひらめいたように人差し指を立てて口を開いた。 「なに、月が欲しいの?」 「佐助は欲しくないのか?」 幸村は佐助がおかしいとでも言わんばかりに、きょとんとした顔で聞いてくる。 返答の代わりに溜息を一つついて、佐助は月と、そして幸村の顔を見比べた。 「いや、貰ってどうすんのさ」 「分からぬ。でも、きれいだ」 「きれいは、まぁ、きれいだけどさ」 「佐助は欲しいと思わぬのか?」 佐助は、はぁと気のない返事をした。 天を見上げればやはり、普段と何の変わるところもない弓張月。 佐助とて月は好きだ。 きれいと言えばきれいだが、別段珍しいものでもないし、毎日毎夜見れるものであれば別にその手に留めたいと思ったこともなく、ましてや独占したいなどとは到底思わない。 持て余すだけだと、佐助は思う。 「別に、俺のものじゃなくても月がきれいってことに変わりはないし。いつだってどこだって見れるんだ。俺はそんな欲張りはしなーいの」 「そういうものか」 「そ。そういうもんさ」 幸村はふむ、と顎に手を当てて、少し考えて――再び口を開いた。 「では、佐助」 「うん?」 「お前はどういったものを欲しいと思うのだ」 「――え」 まっすぐに見つめる幸村の瞳に他意はおそらく無いだろう。 それが余計に佐助の返答を詰まらせる。 佐助にはここ最近で思い当たる回答もなければ、取り繕った答えとして用意するものも、すぐには思い浮かばなかった。 相手の求めている答えすら、佐助には思い至らないのだ。 「どういう意味さ、それは」 「どうもこうも、そのままの意味だが」 「あのねぇ――。どんなものって、そもそも食べ物とか乗り物とか武器とか花とか、色々あるんだから一概に言える訳ないでしょーに」 「違うのか?」 「違うでしょうよ」 「むう、俺は違わないのだが」 「いやいや、さすがにそんな訳ないだろ」 あははと、手を振って笑って見せる佐助に、幸村は笑顔で。 「好きなものは、欲しいだろう」 至極単純な答えに、佐助はふと自身について考える。 ――自分の好きなもの。 ――好きなもの――。 そんな理由で、何かを欲しがった記憶がない。 便利だとか役立つとか、そんな理由でしか、ものを求めない。 ――好きなもの。 好きなものがないとは言わない。ただそれでも、それらを欲しいと思うことはあまりない。 そもそもが、ものには執着しない性質なのだ。 好きな花、好きな景色、好きな色、好きな――。 ――人は、例えば。 「――いいねぇ旦那は。好きなものはすぐに欲しがれて」 「佐助は出来ぬのか」 「大人になるとね。カッコ悪いことするのにもカッコ良いことするのにも、まず自分と戦わなきゃいけないんだよ」 まるで分からぬといった顔をして、それでも何とか理解しようと必死に首をひねっている姿を見て佐助は笑う。 自分の持っていないものを、それでいて欲しいと思うものをすべて、きっとこの男は――幸村は、持ち合わせているのだろうと思う。 「うむ、ならば」 「うん、どーしたの」 「俺が佐助の欲しいものをやる」 そう言って、幸村の手が、佐助の頭を軽く撫でた。 突然のことに思わず一瞬呆けたのち、頭上の手を振り払って、佐助は幸村のほうへと向き直った。 「お、おいおいおい!何を言ってるのさ、旦那は」 「俺はお前が欲しいものを受け取るのが欲しいということなら良いのだろう」 「ちょっとちょっと、日本語おかしくなってるよ。別にいいさ、特に欲しいものなんてないし」 「無いのか?」 「無いよ」 嘘を吐けと、口を尖らせる幸村に軽く笑いかけて。 「俺はね。多分――俺には絶対に手に入らないものが好きなんだよ」 そう言って佐助は多分――自分で可能な限り――柔らかく笑って、再び不思議そうな顔で口を尖らせる、主君の頭に手を載せた。 【了】 ______ 10 お前は笑うだろうか。 否、きっと笑うのだ。 馬鹿なことを言うなと、いつもと変わらぬ笑みを浮かべて。 俺ばかりに責任を押し付けて。 何事もなかったかのように笑うのだ。 嗚呼、馬鹿らしい。 こちらの意図など関係ない。 あの日のお前は明るい顔をして、ただ地を駆け木々を伝い空を翔けていた。 忍なのだと思った。 思ったからこそ、その機敏さに驚き声を掛けたのだ。 ――忍であれば。 ――俺と一緒に来てくれないか。 少しの間を空けてお前は笑い出した。 何がおかしいのかと訝って、慌てる俺を愉快そうに眺めて。 腹を抱え、ひとしきり笑った後に。 ――有難き、勿体ないお言葉。 ――謹んでお受け致しますよ、真田の小さな若君殿。 冗談めかして笑いながら。 お前が言ったのだ。 お前が。 今更責任の所在を問う訳ではないが。 俺のお前に対する罪悪感と、お前の世に対する罪悪感。 互いに雪げないのなら。 「旦那」 静寂を破ったのは、思考の中心にいた男の声。 そろそろ灯りが必要になってくる刻限である。 黙って机に向き、主君から目を通すようにと渡された書物を開いたまま、気付けば辺りは闇に沈んでいた。 昼から籠もっている自室である。 城にいる者なら誰でも知っているし、人払いをした覚えはない。 何故これまで誰も訪れなかったのかと不思議に思ったが、もしかしたら、自分が気付かなかっただけで誰か来ていたのかもしれなかった。 男は、屋敷内を普段の装束のまま歩くのは憚られるのか、軽装をしていた。 「――佐助」 「なんだよ、そんな顔して――」 何かあったのか、ああ、それとも変なものでも食べたのか――。 尋ねてくる顔は、あの日の笑顔とまるで違う。 あの日は。 あの日のお前は。 あの笑顔――もう思い出せない。 否、今見れば、それこそ己を苛むだけだ。 「珍しいね。旦那が飯も食べないで、部屋に籠もってるなんてさ」 「俺だって、書位読む」 僅かに見栄をきって、言い放つ。 全く読んでもいなかった書物は、暗がりによって文字の判別も難しくなっていた。 「お館様に言われたからだろ。あんまり無理しない方が良いんでない」 「佐助」 「なんだよ、って」 手を伸ばす。 頬に触れる。 佐助の顔に浮かんでいた笑顔が消えた。 「旦那。何のつもりだ」 「すまない」 途端、佐助の顔が歪んだ。 しかしそれは一瞬のことで、忍はすぐに笑って身を引いた。 触れていた手が宙に取り残される。 「突然そんな意味が分からない事言うなよ。飯はどうする、俺はそれを聞きに来ただけだ」 ――侍女が、聞いても答えてくれないって泣きついて来たんでね。 言って、再び笑っている。 「先の戦――」 たった、一言。 そう俺が口にしただけで肩が揺れるのが見えた。 「――見事であった」 「ああ、そう。何を今更。あんたが見込んだ忍だぜ、俺は」 暗闇で顔が、その表情がよく見えない。 笑っているのか、泣いているのか。 忍だと思ったのだ。 否、間違いなく忍だった。 とはいえそれは結果の話であり、それまでは、忍の術を知った少年でしかなかったのだ。 少年は、自分を忍だと思っていたようだけれど。 忍になっていく様を、ただ俺は眺めていた。 それを止める事など出来はしないし、そもそもしようとも思わない。 本人がそうあることを望んでいるのだから。 だから、せめて。 せめて俺は前を向いてお前に報いよう。 光の中に身を置いて、その影だけをお前に預けよう。 ――何と虫のいいことだろう。 自然と零れる自虐的な笑みを、再び佐助が覗いてきた。 「旦那?」 「どうした、佐助――」 ――飯なのだろう、その為に来たのだろう――。 言いながら、立ち上がって佐助に歩み寄る。 「ああ、そうだよ」 こちらが追いつく前に踵を返し、襖に向かって歩き出す。 まだ表情が追いついていないのかと、追いつく自信が無いのかと、俺は密かに少し笑った。 「お前が俺を憎めば良いのに」 そう言えば、矢張り。 お前は振り返って笑うのだ。 【了】 |
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