不可思議




――分からない。

じぃ、と、隣に控える男の顔を見る。

人前では実に白々しく、常に必要以上に嗤っているくせに。
こうして二人でいる時は実に詰まらなそうな顔をするものだと――帰蝶は思う。
特に今日はひどく無表情で、苛々としているのが見ているだけでも十分伝わってくる。

幼い頃から、この比較的歳の近い従兄弟は、何かと帰蝶の面倒を見てくれた。
一緒に遊んだり、外出をしたり、下らない会話をしたり。
七つも歳は離れているが、光秀は帰蝶にとって、身近な兄のような存在だった。

帰蝶が物心ついた頃には、既に光秀はこうだった。
もちろん帰蝶の前で笑わないということではない。だが、少なくとも笑みを絶やさない訳ではない。
それに、向ける笑顔の質も違う。
昔から一緒にいて、この男が柔らかに笑うことも出来るのだと知っている帰蝶には、普段の薄く笑っている光秀は見ていて気分が悪い。今でも時折自分に見せる普通の笑顔は、そう嫌いでもないのだけれど。

いつも光秀はにこにこと、ただそうすることが目的であるように笑っている。
顔は嗤っているが、眼が笑っていない。
そもそも笑顔を目的として嗤うことなどに意味はない、あの笑顔は虚ろだ――と、帰蝶の眼にはそう映っている。

とはいえ、光秀という男自体について帰蝶が知っていることは少ない。
共にいる時間が長いだけだ。話している時間も多いとはいえ、ほとんど帰蝶が喋っているのみで、光秀は主に聞き役に回る。
たまに自分から話し出すこともあるが、細部などについて帰蝶が聞くと、すぐにのらりくらりとはぐらかしてしまう。

加えて、あまり普段から感情を出さないその光秀が、珍しく怒っている――ように見える。
何を怒っているのかと――駄目で元々、聞くだけ聞こうと帰蝶は口を開き。

「光秀――」
「ああ、厭だ。全く」

帰蝶が言い終えるよりも早く、光秀が強い口調で言った。
俯いていた顔を大業に上げて、眼にかかっていた長い前髪を振り払い。

「貴方は美濃、斎藤道三公の娘でしょう。その貴方がそんな間者紛いのことをする必要など――あの尾張のうつけに嫁入りなど――しなくても良いのではないですか」

声の調子は普段通りだが、いつもより少し言葉が早いと、喋りながら光秀は自覚した。
光秀は苛立っている。
原因は先刻行われた家臣団の会議でのこと。道三直々に、帰蝶を尾張織田家に輿入れさせると――報告があったのだ。
報告ということは決定事項であり一家臣にはどうすることもできない。勿論家老連中には事前に相談の一つや二つしたものだろうとは思うが、少なくとも光秀には初耳だった。

美濃、斎藤家は尾張、織田家に比べそう引けをとるものではない。
ならば一戦交えれば良い。血を流して雌雄を決してしまえば良いと――光秀は思う。
戦上手と定評があり、また同時に無情かつ非人道的と歌われ悪評高いかの尾張のうつけと、一度剣を交えてみたい気持ちもある。

天下など統べたところで何も面白くなどない。
治めるものが増えれば増えるほど面倒が増えるだけだし、過分な財などあったところで使わないのだから意味がない。世の武将が富や権力に執着する気持ちは、光秀には理解できない。
金などあったところで、愉悦も快楽も味わえない。
金で買える程度の娯楽には、何の興味もない。
安楽と小金を求め、小判鮫の様に生きていくのは楽しいだろうか。

勿論、光秀も道三の目的が織田に取り入ることでなく、織田を内部から壊滅させることだとは分かっている。自分もその説明は聞き、納得させられたのだ。
集団は内部から壊滅させた方が容易い上に、それはそれでまた実に愉快だ――と。
しかし、帰蝶を一人で向かわせることには賛成できなかった。
幼い頃から見てきた分、帰蝶という女(ひと)の強さは分かっているつもりだが、同時に弱さも、おそらく家臣団の中で、ともすれば道三も含めた中でも、一番良く知っていると思っている。
そして、何より。

「――それに大体、貴方も貴方だ。嫌なら嫌だと訴えれば良い」

光秀が苛ついている一番の理由はそこにある。
せめて本人が難色を示せば、光秀とて慰めるなり、他の反対派の家臣と共に道三に意見してみるなりするのも吝かではない。
それをしないのは、当の本人である帰蝶その人が、計画の遂行を望んでいるからである。
それが何故苛々する原因になるのかまでは、光秀は考える気はない。

「武家の娘が、それ位のことで動じる訳にもいかないでしょう。父上の力になれるのなら、私は構わないわ。寧ろ女の身で国の役に立てるというのだから、嬉しい位」
「貴方は女だ。幸せを求める権利も余裕もある」
「幸せよ。蝮の娘に相応しい働きをしてみせる。こんな機会は滅多に無いわ」
「帰蝶――」
「強くなりたいの。私は」

言って、鋭い視線で、光秀を見据える。

守られているだけの、待つだけの女など御免だ、と。
自分自身で、それを実行する程度には強い女だと思うし、それを完遂できる程には強い女でありたい、と、帰蝶は思っている。
見据えた先の光秀は、感情の読めない、けれど不思議と真直ぐとした目を帰蝶に向けている。

光秀の目には帰蝶の全身が映っている。
漆黒の流れるような髪、意思を持った強い瞳、引き締められた唇、白い首、赤を基調に作られた金糸入りの着物、其処から覗く細い腕の先で、手が、きつく握り締められ微かに震えている。



この女が、一国の命運を背負い一人で敵国に嫁ぐのだ。



「私も行きますよ、帰蝶」
「――え?」



鋭く細められていた目が驚きに見開き、光秀はそれを眺めて満足げに笑った。
光秀が一体何を言いたいのか、推し量ろうと怪訝に見つめてくるその光の入った黒い目を見返す。

「私は大丈夫よ。お前は父上の力になってあげて――」
「いつになるか、分かりませんが。必ず早い内にそちらに参ります」

帰蝶の台詞を中断させ話し出す。
光秀が深々と礼をしてから顔を上げれば、怪訝な、けれどどこか容赦と安心の含まれた顔をして、光秀を見つめる帰蝶がそこにいた。

「どうして?」
「決まっているじゃないですか」



光秀は、にこりと綺麗に笑って。



「貴方に殺されてしまう前に、魔王とやらを一度拝見しておきたくて」



そうね――と、無理に口端を歪めてみせたその顔で、答える。
その手は矢張り震えている。

光秀はこのままこの女を追い詰め歪め壊したら――という衝動に駆られた。
ただ同時に、どこかそれをしてはならないという妙な警告を心中で聞いた。
心中で警告など起こったことがなく分からなかったので、家臣であるという己の職業意識からくるものだろうと、とりあえず自身に言い聞かせておくこととして。



「私も、行きますから」



再び深々と、頭を下げる。



「寂しくないですよ」



そうね、と、風のような独り言が光秀の耳に届いたような気がしたが、それは空耳かもしれない程度だったし、空耳でも構わないと思った。
仮に帰蝶が言っていたとしても、御互いにどちらに対して言ったものか、その時光秀にはそれすらよく分からなかったのだから。






【了】




07/02/26.up