子供の泣く声が、どこか遠くから響いていた。 ――煩いな、面倒臭い。 そうは思うものの残念ながら、その子供を連れて帰るのが自分の仕事である以上、放っておく訳にもいかず。佐助は一応その声の方向へと足を向けた。 段々と、声が近くなってくる。 何の遠慮もない、子供が助けを求める時の声だ。 彩色される世界 佐助はじきにその後姿を見付け、気付かせるように、わざと音を立てて歩み寄った。 が、泣くのに夢中な子供は、そんな些細な音には気が付かない様で。 結局仕方なしに、佐助は前から回り込んでその正面から声をかけることにした。 佐助としては、こういう場面において何をどういう態度で言えばいいのか知らないために、出来れば自分からは話しかけたくなかったのだが。 泣いてる相手に怒るのも逆効果だが、かといって迷子になるなと普段注意している分、笑って迎えに来るのもおかしい気がする。 そう考えて、とりあえず佐助は、呆れた感じで話しかけることにした。 「こんなトコにいたの」 「さ、すけぇ、っ」 その時まで、小さな若君は大声をあげて泣いていた。 その歳の子供が着るにはかなり上等な服を、一体何をどうしたらそうなるのかと問いかけたい程大層に汚して。 しかし佐助が声をかけると、さすがに歳の近い家臣の前でいつまでも泣いているのは決まりが悪いとでも思ったのだろう、その泣き叫んでいた声が止み、代わりにしゃくりあげるような息使いが続いた。 無理に我慢しようとしているのが明らかで、逆に子供らしさが強調されているような気がしたが、佐助は面倒なので言わないことにした。 「いつも言ってるでしょうに。勝手に出歩いて迷子にならないでよ、もう。怒られるのはこっちなんだから」 「っ、すま、ない。手、間を、掛けた」 一応それらしく注意をしてみたが、幸村の肩はその間中、変わらず上下し続けている。 我慢しているのは分かるが――それでもやはり、子供らしい泣き方だ、と、佐助は思う。 勿論年齢にすれば、この若すぎる未来の殿と自分とでは、そう変わるものではない。 それは分かっているが、矢張り忍として生まれ育ってきた自分と、大名の嫡男として生まれ育てられてきた幸村とでは、あまりに違いすぎるのだと、佐助はわきまえると同時に分かり過ぎている。 それでも返答の内容的には、小さくとも大名の息子たらんとしているのだろうことが伺え、その微笑ましさに忍はつい苦笑を洩らした。 「ははは。それじゃ、帰るとしますか」 早く帰らねば、本当にこっぴどく怒られてしまうのが目に見えている。 そのため佐助はそう言って、まだ微かに泣いている子供の頭に手を載せようとした、その時。 「っ、子供扱い、するな!」 自分の手が弾かれたのだと、一瞬、佐助自身も気付かなかった。 驚いて見れば、弁丸は少し怒ったような、むっとした顔でこちらを見ている。 あやすような口調が不味かったかな、と、少し反省しつつ、佐助は心中で一人舌打ちする。 ――『子供』の相手は、面倒臭い。 彼とて忍として家臣としての、自分の身分は一応わきまえている。 もし弁丸が佐助を斬れと言えば自分はおそらく斬られるのだろうし、そうでなくとも忍軍の長が自分を若君付きの忍として不適切だと判断した場合は、降格されるか、捨てられるかはするのだろう、程度の認識はある。 だがどうしても、佐助はこの若君に献身的に、恭しく仕えようという気にはなれなかった。 それは自分の元々の素養のせいもあっただろうが、それ以外に、原因はおそらく弁丸の方にもあるのだと思う。 弁丸は、佐助にとって全くの子供なのだ。 そう歳が違わないというのが、余計に佐助の心に余計に引っかかっている。 表情も、感情も。 忍びとして邪魔なものは全て殺せ、必要ならば作れと、少なくとも自分とその周りの子供はそう教えられてきた佐助にとって、弁丸は異物の存在だった。 そんな『子供』は、今まで周りにいなかったのだから。 勿論それが普通の子供というやつであって、自分が異常なのだとは、彼も分かっていたのだが。 佐助はあらためて、『子供』を見る。 泣き腫らし、鼻も赤く泥の付いた顔に、そこらじゅうに擦り傷や切り傷のついた手足。 目に映るその『子供』に対して、佐助は羨ましいとかそういった感情は持たなかった。 そしてふと、弁丸に対しての怒りも、どこか消えた気がした。 『子供』は『子供』で、それなりに大変なのだろうという所に考え及んだからである。 佐助が不要だと斬り捨ててきたものがまだ弁丸には生きているのなら、無駄なものを抱え今を精一杯に生きているということになる。 それが果たして、辛いことなのか。その逆の辛さしか味わわなかった自分には分からない。 けれど。 自分が要らないと判断したもの、邪魔だと判断したものを、この少年はきっと――それもおそらく普通よりも強く――持っている。 普通の生活が普通の精神に与える重荷。そしてこの少年に限って言えば、将来きっと必要になる、そういったものとの別れ。 弁丸に佐助の味わった辛さなど一生分からないだろうが、佐助にも、おそらく弁丸の辛さは一生分からない。 当然といえば当然過ぎるその発見に、しかし佐助は大きく驚いた。 「拙者とお前とでは、歳などそう変わらぬだろう。子供扱いするな」 佐助が色々と考えていると、こちらの反応を待つのに痺れを切らしたか、弁丸が言った。 「あ、確かにそうですね。すみません」 「心にもない謝罪などいらぬ」 「そぉんなことないですよー。すみませんってば」 「嘘をつけ」 「本当ですって」 自分を睨む年端も行かぬ小さな若君の台詞に、佐助は笑って返しながら、結構言うものだな、と、他人事のように思った。 事実、この若君の面倒を自分が見ることに決まってからまだ日も浅く、実感も無ければ親しみも薄い。 かといって、佐助にとって親しみを持てる相手がいるかと言えば、やはりそんな心当たりも無いのだが。 弁丸といえば、相変わらず挑むような眼で歳の変わらない家臣を見つめている。 忍はそんな若君を、失礼なことだが、犬のようだと思った。 負けず嫌いで意地っ張りで、そのくせ甘えたがりで人懐っこくて。 ――ならきっと、扱いも簡単だろう。 佐助は屈みこんで弁丸の顔を覗き、手を相手のそれに伸ばし、繋いだ。 体温の高い、自分より僅かに小さな手を、軽く引く。 「俺が悪かったですって、ね。帰りましょう」 「………うむ」 手など引いて歩くよりも、佐助が背負って帰った方がよっぽど早い。 だが弁丸は嫌がるだろうことが分かっていたので、そう思っても、あえて佐助は自分がおぶるなどとは初めから言い出さなかった。 「なぁ、佐助」 先程までの怒りは消えたらしい。 少し歩いた所で。弁丸は佐助に、驚くほど大人しい声で話しかけた。 前を歩く佐助は、手を引かれながら一生懸命についてくる弁丸に声だけで返した。 「なんです」 「お前には、迷惑ばかりかけるな」 「そう思うならちょっとは落ち着いてくださいよ」 「うむ……なぁ、佐助」 「なんです」 「某が大きくなって、強くなったら。今度は俺がお前を守ってやるからな」 「はい?」 会話中も進み続けていた忍の足が、ぴたりと止まった。 そのまま体の向きも完全に変えて、佐助は真っ直ぐな眼で直視してくる弁丸の瞳を、呆然と見つめる。 「い、いらないでしょうよ、俺には!何言ってるのよ真田の坊ちゃん。俺は真田家の忍だから、若旦那のお世話してるんでしょうに。忍が主君に守られてちゃ、意味ないじゃない」 「うるさい、某が守りたいのだから黙って守られていろ。いかに臣下とはいえ、借りは返さねば気分が悪いものだ」 「だぁぁかぁぁらぁぁ。臣下に助けられた所で、借りも何もあったもんじゃないんだってば、分かる?」 「分からん。歳も違わぬ同じ人間だろう」 「ち、が、う、の!俺は忍で、あんたは大名の子。身分とか立場とか、いろいろ」 「口答えするな、命令だ」 得意気に。 胸を張って、意気揚々と言うその子供を見ながら、佐助は悩む。 ――将来。成長して、今の家長とそう変わらない背丈、力強さを持つこの主と、そして、その後ろにいる自分。 ――嗚呼、なんて滑稽な話だろう。 「精々楽しみにしておきますよ」 そして。 佐助は久々に、少し、心から笑った。 (了) |
06/11/19・up 08/10/06・改定 |