煙管 ふぅ、と。 女の紅を差した唇から上り即空気へと溶け入る紫煙を、男はただぼんやりと眺めていた。 霧散していくその煙に、己の髪の色を重ねつつ。 丁度その全てが溶けきった頃、男は口を開いた。 「――矢張り、似合いませんね」 「ッ――っは、かはっ」 女は咳き込み、むせながら、それでも斬れのある眼差しで男を睨んだ。 「う――五月蝿い、光秀。似合う似合わないの問題じゃないもの。吸いたくて吸っているのだから文句を言われる筋合いはないわ」 「無理に大人振ろうとするからでしょう、帰蝶。それに文句など言っていません。ただの感想です」 無理はしない事ですよ――と、笑いながら、柔らかな仕草でそっと帰蝶の手から煙管を持ち上げる。 帰蝶はそれに抵抗しない。確かに己には向いていないと思ったからだ。 だがしかし、帰蝶が煙管を吹かそうとした理由は光秀の指摘とは異なる。 無意識の内にそんな意図があったのではと言われれば帰蝶も否定はしないが、少なくとも、本来帰蝶が意図した目的は違う。 そして、このまま煙管の煙を燻らせていたからといって、その本来の目的は達成されそうにないと帰蝶自身が察したからこそ、大人しく光秀の手に渡したのである。 「――気が、遣れると聞いたから」 「は?」 ぽつりと、俯き漏らすように呟いた帰蝶の言葉に、光秀は視線を煙管から帰蝶へと戻した。 口で吹かしていなくとも、草の入ったままになっている管からは若干の煙が漏れている。先程の煙たさが脳裏をよぎり、帰蝶は再び二、三咳込んだ。 そもそも、煙管等というものを帰蝶は所持していない。 欲したところで普通は武士が持つものであるため、親の道三に頼む訳にもいかず、内密にと光秀に頼んで用意してもらったものである。 帰蝶にとって、光秀は決して『信用できる家臣』という部類には入らない。 その性格や素行から、一般的に良いとされる類の人間でもなければ、安全な人物ですらない。 従兄弟である帰蝶とても、危険人物と言ってしまっていいだろうと思っている。思考が読めず行動だけ見れば奇行が目立つのだから仕方がない。 ただ、嘘は吐かない――と、帰蝶は思っている。 勿論世渡りのためや周囲を欺く為ならば話は別だが、少なくとも、帰蝶は光秀に冗談以外で欺かれたことも、約束を反故にされたこともない。 そこだけは、帰蝶も信を置いている。 「落ち着くと、聞いたから。気が休まると聞いたから、吸ってみたかっただけよ」 「ああ、成程」 帰蝶はじきに嫁入りする。 隣国の領主織田家、この戦国乱世に於いて『魔王』との二つ名で称される織田信長へと。 愛娘に対するこの処遇について『蝮』と呼ばれる道三でさえ難色を示したというが、その決定に、娘はただ諾と頷いたのだった。 「矢張り恐いですか」 光秀は、出来るだけ柔和に聞こえるよう声を出す。 慰めようなどという心掛けからではない。嘆き縋り、悲しむ姿でも見せるかと思ってのこと。 勿論、仮に帰蝶が縋ってきたとしても、光秀には慰める気などまるで無い。ただその様子を傍観するのが目的である。 しかし帰蝶は、怪訝な顔をして。 「何が」 「それは勿論、『魔王』が」 「何を馬鹿なことを言っているの」 「馬鹿、ですか」 馬鹿よ、と、帰蝶はこともなげに肯定して。 「自分が本当に落ち着いているか確認したかっただけよ。自棄でも起こしているのなら、まず落ち着かなければ自分でそうと分からないもの」 光秀は首を傾げた。 目の前にいる女は、自分と歳も近く、割合親しくしている相手だった筈だ。 光秀の知る彼女であれば、そんなことは言わない。言ったとしても、真直ぐな眼と裏腹に、血が滲むほど握り締めた震える拳が見えた筈だ。 しかし帰蝶は、非常に落ち着いた様子で、殊更静かに座している。 「恐いとすれば自分自身。結婚という、本来であれば女の一生に深く関わる問題について、自分があまり重きを置いていないことかしら。父上は、あれこれと、私の心配をしているようだけれど――」 父親というものは皆こういうものなのかしらと、帰蝶は冗談めかして笑った。 光秀もつられて、少し笑う。確かに、非人情で知られる斉藤道三が娘が絡むとなると急に弱腰になる姿は、光秀も見ていて少なからず滑稽だと思っていた。 「恐ろしくは、ないのですね」 「『魔王』などと銘打たれていても、所詮は同じ人間でしょう。『蝮』を親に持つ身だもの、今更、どうということもないわ」 「――それは、それは」 「信じて無いわね」 「まさか。私が貴女の言う事を信じない訳が無いでしょう」 幼い表情で、拗ねたように睨む帰蝶に。肩の位置まで上げた左手を適当に振りながら、にこりと笑って言う。 帰蝶は呆れ顔で僅かに嘆息した。 とほぼ同時に、光秀も目を伏せた。 ――分からない。 率直に言って分からないというのが、光秀の今の素直な心境である。 少なくとも光秀が思っていたより、帰蝶は余程、強い女なのだということは分かった。 それは分かったが、光秀の知る『明智光秀』であれば、ここで従兄弟の嘆く姿を見られなかったことに対して落胆していてもいい所である。しかしその本来あるべき落胆が、光秀には感じられない。 もちろん代わりに、それでこそ落胆のさせ甲斐があるというもの――という意味での期待や悦びは感じているものの、それ以外にも妙な心持がしている。 光秀にはそれが分からない。 そんなもの、今まで感じた覚えは無い。 経験が無い。 だから分からない。 ――つまりはそんな、簡単なことである。 ここで光秀は、己のその感情に対する興味を失った。 元来、喜怒哀楽で言えば『喜』と『楽』にしか興味を示さない性分である。そのどちらにも当てはまらない感情などに興味はない。 面白いと思うのは、眼前の女の事。 戦国の女として申し分ない強さを持ち、自分に妙な感情を抱かせた女の事。 「――帰蝶」 「何」 「貴女を魔王に差し出すのは、とても惜しい事なのかもしれませんね」 「何にとって」 「美濃にとって――――否、」 私にとってと言ったら、貴女はどうしますかと尋ねれば。 帰蝶はらしくない冗談を言う、と呟いた後。 御互い丁度良い暇潰しがなくなるわねと、大して惜しくも無さ気に、ひどく平坦に言ってのけた。 (了) |
07/06/19.up |