色彩を失くした鮮やかな




幼い頃。
本当に幼い頃は、今よりも、まるで世界が鮮やかだったように思う。

全てのものが日々新しく目を奪い。
常に、もっと色々なものが見えていた。
木々のざわめき川のせせらぎ、朝の日差しに夜の月明かり。
神社という場所柄、殊更に自然と触れ合う機会も多かったし、訪ねる人も多く、色々な人と会ったし、話した。
一度しか会わない相手もいたし、その反面、毎日の様に会う相手もいて。
目まぐるしく変わる世界に、日々追われていたものだ。

矮雑な世界。
それを。



「小十郎」
「は。如何用ですか政宗様」

唐突に。

襖を開けて入ってきたのは、我が主人だった。
断りもなしに自分の部屋の襖を開けるのは、酔った同僚以外であればただ一人。
慣れたもので、それでも初めの内は一応、心臓に悪いので開ける前に合図位はして下さいと一々小言を言っていたのだが、改める気も無いらしいので随分と前にもうやめた。
政宗を自分に合わせようとするのは無駄である。ならば自分を政宗に合わせれば良い。お蔭で、部屋の前を通る足音でそれが誰であるかを聞き分けられる様になってしまった。


猥雑な、鮮やかな世界。
それを奪ったのはこの男の父だった。
あの男が自分の全ての世界を奪い、そして、与え。


そしてこの男が、それを作り上げた。


「何を考えてる」

いえ、と、否定の言葉を発する。
思考していたというより、呆けていただけといった方が正しい。別に何かを考えようとしていたのではないし、意識して思い出そうとした訳でもない。
しかし政宗の眼が己から逸れないのを見て、仕方無しに続ける。
あまり過去の事や其れについて思いを馳せていた事を、政宗に言いたくはないのだ。不機嫌になるのが眼に見えているから。

「詮なきことを」

「言え」

ずかずかと進入し、机に向かった小十郎のすぐ後ろ、向き合えるだけの僅かな空間を残しどっかりと座り込む。
座布団に茶位出そうと立ち上がる。と、まだこちらが何も言わない内に要らないから座れと命じられ、向き合う形で座り直した。

大体が、己の為に隠さなければならないようなことは考えない。だから隠し事もないし、そんな負い目を抱える位ならどんなことでも言ってしまった方が大分楽だ。少なくとも今思いつく限りでは、言えと命じられた場合に、政宗に言えない事など何も無い。
無表情で、昔の事を考えていたのだと正直に話す。
遠慮を顔に出せば御互いに気不味くなる。
こちらが気にして遠慮していると知れば――勿論知っていない訳でもないと思うが、その様にあからさまな態度をとれば――、自尊心の高い主のこと、どれだけ臍を曲げることか分からない。

政宗は、部屋に入ってからずっと真顔だ。
真剣と言うより、何を考えているのか分からないといった顔。笑ってもいないが悲しんでもいないし怒ってもいない。
感情が読めない。
まぁ、そういう感情でいるのだと言ってしまえばそれまでだが。

「小十郎。お前は」
「心得ております。小十郎が生まれたのは、政宗様とお会いした時を除いて他にありませぬ」

促されるままに、そう答える。

これは確かな事だ。
その言葉に嘘偽りはない。少なくとも、政宗の知る小十郎はその時生まれたし、今ある自身の姿はあの時から形成してきたものに相違ない。

「ああ、そうだな」
「しかし、それもまごうことなき片倉景綱の記憶。小十郎を形成します一部です。お許し、願えませんか」

頭を下げる。
記憶は消せない。思い浮かぶものは拒否できない。となれば、許しを請うしかあるまい。

「『許す』?」
「はい。政宗様は、お厭なのでしょう」

――小十郎が、過去に耽るのが。

Han、と、異国風の発音で鼻を鳴らして。
笑っている。

何故だか分からないが、政宗は自身の心情を看破されたがる。その癖、これもまた何故か分からないが看破すると不機嫌になる。
加えてこちらが外したり言わないでいると怒り出すのだから不思議でならないが、要は人を試すのが好きなのだということだろう。
そして自分はそれに適わなければならず、しかし常に適うというのも政宗の癪に障る――と。
そういうことなのだろうと、小十郎は理解している。

「じゃあここで許さねぇっつったら如何する?」
「如何様にも。腹を切れと仰るのならば切りますし、何か条件がおありでしたら何であっても従いましょう」

違う。
条件など無くても常日頃、自分は政宗に逆らったりなどしない。

『したがいましょう』。

何を言われれば如何従わないというのだ。馬鹿馬鹿しい。
自分の基準は全て、目の前の男にあるというのに。

否、それも違う。
『というのに』でなく、『だから』なのだ。
目の前の男がそれを望んだから。自分に許しを請うよう仕向けたかったから、自分は今そんなことを口走ったのだ。

まるで支配されてしまっている。

「何でもか」
「はい」
「じゃあ泣け」

己のものでないその手が自分の着物を掴む。
驚いて少し後ろに仰け反ってしまった。腕に力が入っていなかったようで行動の自由は利いたが、それでも手の力は入っているらしく離れなかった。
そのまま埋めるように己の胸元に顔を寄せる、政宗の心理を読み取れない。

意表を突かれた。泣けとは一体どういう趣旨の命令だろうか。
己が泣いたところで政宗に一銭の徳も有りはしまい。あるとすれば好奇心の充足だの嗜虐心の満足だの、そういった理由しか、自分には想い浮かばない。
この唐突な内容からして、おそらく部屋に来た当初の用事もそれだったのだろうと判断する。

「俺の為に俺を想って俺を見ながら俺に縋って他の誰でもない俺一人の為だけに――小十郎」
「何故、そう望まれます」
「お前が、俺の片倉小十郎だからだ」

見当が付く。
おそらく誰かに俺を侮辱されたのだろう。
何だか分からないが、他所からの自分に対する誘いは多い。断れば、憂さ晴らしに罵詈雑言の類を浴びせられるのもよくあることだ。
ただ、自分にではなく政宗に対してそれを実行するとは。
政宗よりも位が上の者でなくては出来ない芸当だ。一体何処の誰が、とは思ったが、そんなことを今ここで考えていても仕方が無い。

「ならば、泣けませぬ」
「Aa?」
「それで本当に泣けてしまっては困るのでしょう」
「誰がそんなこと言った」

言葉の内容とは裏腹に、笑って顔を向ける。

ああ、困ったものだ。

行動の全てが支配されている。
正味の話、泣けと言われて泣けぬものではない。政宗が真に望まないから泣かなかっただけの事で、真に望めばどんな方法を使ってでも泣いてみせるに決まっている。
それをしないのは矢張り政宗が望んでいないからだ。



昔、昔。

些事に一喜一憂し悲しければ泣き嬉しければ笑い、全てがきちんと自分の中に入ってきた。
全て自分に意味をもたらしたし、好奇心も持った。

それが。



「小十郎」
「政宗様」
「何だ」
「小十郎は何の後悔も未練もありません。あるのはただ」

――忠誠と、感謝のみです。

「なんで今更改まって、んなこと言うんだよ」
「申し訳ありません。でも偶には言葉にしておかねば、不安になるでしょう」
「誰がだ、誰が」
「勿論。小十郎が、です」

お前でもそんな事があるのかと、意外そうに口に出す政宗は楽し気で。



全く、以って。

全て支配されている。
支配されているというのに、何故か。

この充足感。



他に何も要らないと思う。
他には何も求めていない。
求めているとすれば、それは。



それは。



「政宗様」
「ああ」
「政宗様」
「どうした」
「いえ――」



――そろそろ少し、涼しくなって参りましたもので。



そう言って、主の背中に腕を回した。






【了】




06/12/1・up
07/05/31・改定