『みずから苦しむか、
もしくは他人を苦しませるか。

そのいずれかなしに恋愛というものは存在しない。』

――レニエ・著













夜の、闇。
朔月のため外は完全な漆黒へと染まり、しんと静まり返ったその空間は、しかしいとも簡単に破られた。
騒音。
閑静な宅地の豪邸に、突如として何かが壊れる様な大きな音が響いた。直後、大勢の足音と共に怒号が飛び交う。
喧騒。
あまりの五月蝿さと何が起こったのかという不安に、少年は寝ていられなくて眼を覚ます。
その豪邸の住人である少年は、この堅固な建物が振動することもあるのだという事をこの時初めて知った。

―――母と父はどうしたのだろう。

今夜は使用人を家へ返してやるのだとあらかじめ聞いていたので、離れの方から物音や声がしない理由は分かる。
けれど母と父が居る筈の下階からも、物音はおろかその気配すらしないのは流石におかしい。
独りかもしれないという可能性に不安が膨れ上がる。

―――母上、父上。

声にならない叫びを上げて、部屋から飛び出した。
両親の寝室まではそう遠くない。
闖入者はまだ離れの方にいるらしく、母屋の4階にいる彼はまだ行動的になれた。
寝具を飛び出し、寝間着を引き摺りながら、走る。
少年には、必死になったという経験があまりない。
記憶に残っている範囲では、幼少の頃に両親と逸れて泣きじゃくった時が最後だ。
親からは綾瀬川家の嫡男としての誇りを持ち、無様な真似はするなと教えられて育ったし、自身でもそれが正しいと思い、従ってきた。
しかしこの時、彼は必死だった。
生まれて初めて、生命の危機というものに直面したのだから。

階段を下り、真っ直ぐ行った突き当たりの角を右へ曲がる。
両親の部屋の戸が視界に入ると、少年の顔に希望の光が刺し、自ずと歩調も速まってくる。
段々と近付いてくる何者か達の足音のせいもあったかもしれないが、とにかく少年は懸命に足を動かした。
途中母屋の戸が破られただろう音が彼の足を絡めとり転倒したが、それでも彼はひたすらに走った。

―――あの扉を開ければ。

子供にとっての守護者は親であり、それは時として子供の目に絶対的なもののように映る。
彼も例外でなく、父母ならば何からでも自分を守ってくれると信じていた。
今の彼には、両親を心配するという気遣いは無い。
自分で精一杯の子供であれば、それは当然のことかもしれないが。

遂に辿り着いたドアに手をかける。
声を張り上げる為、軽く息を吸い。

―――助けて!

精一杯の力で扉を開く。

「父上!母上!」

叫ぶ。
返事は、無い。

姿も無い。
部屋は完全に蛻の殻といった状態にあり、少年はただ呆然と、立ち尽くすことしか出来なかった。

彼は両親や親族から、良くできた息子だと、褒められ甘やかされて育ってきた。
事実何でも人並み以上には出来たし、自分自身、プライドの高さだけは自覚している。
それでも、その自分を振り切って惨めに叫んだというのに、その部屋には彼の努力に報いようとするものは一つもなく、ただ扉を開けた振動に、花瓶がカタリと揺れただけだったのだ。

近くで階段を無作法に昇る音、と同時に、近付いてくる知らない男達の声。
振り返った時にはもう遅く、彼はろくな抵抗すら試みることもなく取り押さえられた。
床に顔をつけたのも、やはり少年にとって初めてのことだった。

侵入者達の下卑た笑い声に、それだけで不快な気持ちを覚える。
少年は高貴な身分なのだ。
その自分が何故こんな目に合わなくてはならないのだろうか、と、少年の目には悲しみでも恐怖でもなく怒りが浮かんでいたのだが、男達の中にそんな事まで気にするような輩はいなかった。
可哀想になぁ、と、そんなことは微塵も思っていないような声で囁く声に、少年は悪寒を覚えた。






少年が両親に家ごと『売られた』のだと知らされるのは、これから数分後の出来事である。






《続》





06/10/10・up