祖父の部屋は自分の部屋と大差なく実に簡素だ。 床の間以外に飾りもなく、机以外に家具もない。 話があると言っておいたからだろう、部屋に入ると既に二人分の茶が用意されていて、 他愛のない世間話を一通り済ませた後――ああそうだ、と。 思い出したように、他愛ないことどもの延長のように。 明日この家を出ますと、俺は言った。 38 祖父は一度目を丸く見開き、しかしすぐに瞼を軽く伏せて、卓上の茶に視線を移した。 「のう、正守」 開いた口は重く、普段のそれとは違い腹の底に響く重厚な音。 年期が違うとでも言うのか妙な威圧感と説得力にも似たものを持っている。 当主と呼ばれるだけのことはある――と。 そういうことなのだろう。 ただし、自分は墨村という名がどこまで世間に通用するものなのかまだ知らない。 だから当主といっても――ただでさえ、異能者という限られた世間の中で――祖父がどのような立場に当たるのかは分からない。 無論それがどうであったとしても、彼が"うち"の当主であることに何の変わりもない。 ――けれど俺がここにいる限り、そこまでしか見えはしないのだ。 「本当に、行くのか」 「はい」 「意志は堅いと」 「冗談でこんなことは言いませんよ、おじいさん」 口元だけは笑って言えば、相手はそれもそうじゃなと呟き茶を啜った。 祖父は普段頑固者で通っている。 事実、こうと決めたら曲げない意志とそれに見合う行動力を持っているのだが、 だからといって、決して話して分からぬ男ではない。 口ぶりから察するに俺の動向など予想がついていたようだし、 怒るでも悲しむでもない、けれどそのどちらも含んでいるようなこの反応は――。 それらの感情よりも強い諦念が、今現在、祖父の心を占めているが故なのだろう。 「出て、どうするつもりじゃ」 表情は眉一つ動かさず。 自分の顔しか移っていないだろう湯飲みの内を見るともなしに覗きながら、発された声はやはりどこか沈んでいる。 一般的な理由――孫の一人が成人を前に家を出るということが家族として辛いのだろうか。 ――それだとしたら、俺は幾分救われるのだけれど。 自分の子供染みた期待に苦笑しながら、いただきますと軽く言って自分も茶を一口流し込んだ。 まだ僅かに温いが、濃く苦い。 祖父にこの態度を取らせた理由など分かり切っている。 理解した上で、すべてを婉曲的に責めるような選択をしたのは自分だ。 納得のいかないことにはすぐ噛み付く祖父の事。 その祖父を俯かせ、妥協せざるを得ない状況を作り出したのはまぎれもなく祖父であり俺自身であり環境であり、 そしてまた、実のところは誰にも責などありはしない。 ――自覚して我儘を言うのはこれが初めてかもしれないな。 考えながら口端を歪めるようにして、少し笑った。 「特に目的がある訳じゃありません。暫くは修業もかねて色々見て回ろうかと」 「そのあとは」 「裏会に行ってみるつもりです」 裏会――。 そう復唱するように呟き、瞬間、祖父の目付きが険しいものに変わった。 わざとらしく音を立てて湯飲みを置くと、眉間によった皺を深くさせ。 卓上へ肘を突くと、ずいと頭をこちらへ寄せる。 「正守」 「大丈夫ですよ。暮らすのに困るので、少し仕事をもらうだけです」 「あれとはあまり係わり合いにならん方が良い」 「何かご存知なんですか、お爺さん」 いや――何も知らない、と。 分からないからおかしいのだと、神妙な顔で祖父は言った。 何か知っているのか何も知らないのか判断付きかねる。 「気を付けろ。あそこは得体が知れん」 「肝に銘じておきます」 返答の代わりに、祖父はふんと鼻を鳴らした。 「そのあとは」 「あと、とは」 「家に帰っては来んのか」 「あはは。分かりませんよ、それはその時にならないと」 「来ないつもりじゃな」 軽口に乗ってこない祖父を見、引き上げた頬を戻す。 「いえでも正味な話、全く帰る気がないというのでもありませんよ。ただ、少し離れた方がいいと思いまして」 「他の皆には言ったのか」 「いえ。父さんには、出る直前に言おうと思ってます」 淋しがるでしょうからと続けて、父の顔を思い浮かべる。 祖父もいるとはいえ男手一つで、母の分まで自分たちを育て支えてくれた。 人間として感謝も尊敬もしている。 そして何より継承者でもない自分を、唯一誇りとしてくれている存在。 ――泣いてしまう、かも知れないな。 「淋しがるじゃろうな」 「でしょうね」 ある程度納得してくれるような言い訳は用意している。 だがそれでも、きっと父は心底から止めてくれるだろう。 それが一番有難く、また心苦しいことでもある。 「利守も」 「かもしれません」 「良守も」 「そうだといいですね」 「淋しがるじゃろう。あれは、そういう奴じゃ」 ――それはまた淋しいとは少し違った感情でしょう――。 声に出さず、心中でごちる。 もちろん、それでいてあの弟ときたら淋しがらないこともないのだ。 理不尽な罪悪感とともに、どこか淋しいと思わないはずがない。 ――もっときちんと嫌な奴であれば良かったのに。 そう、心から思う。 「弟達が、心配にはならんのか」 「嫌だなあ。それだと俺が薄情みたいじゃないですか」 「ならんのなら、そういうことじゃろう」 「心配ですよ勿論」 それなら、と。 力の籠った目でこちらの双眸を見据えて、祖父は言葉を続けた。 「良守と、利守――兄弟三人で、役目を果たしていけば良いじゃろうに」 肩からすう、と力が抜けるのを自覚する。 失望の色が眼にも出てしまったかもしれない。 なぜそんな下らないことを言うのかと尋ねる代わりに、俺は乾いた笑いを浮かべ眼を伏せた。 「ははは。食い扶持が三人もいて仕事があれだけじゃあ、生きていけませんよ」 「いや、じゃからそこは」 「お爺さん」 ――そうであったらどんなに良かっただろう。 ――けれど。 「全部、今更なんです」 自分が自分であり弟が弟であり、そうあり続けてきたのだから。 そんなものは誰も望めない。 望んでいるとしたらそれは俺自身や良守、利守自身に対してではなく形式に対するものだ。 そんなものは、望みですらない。 何か言いたげにしている祖父を遮るために失礼しますとだけ言って立ち上がる。 そのまま眼を合わせないようにして後ろを向き、歩く。 「正守」 退室しようと襖に手をかけた瞬間、背後かけられた声に動きを止める。 「――もう、帰っては来ん気か」 「やだなあ、おじいさん。だってここは――」 俺の家ですよ、と。 首だけで振り返りながら、 俺はおそらく、 そう言って笑った。 38. それもありだとは思うけれど、私の感情になることはないよ |
09/08/15・up |