32 「げに恐ろしきは人の愛だな」 「はあ」 男は毛の固まりのような、黒い球体に腰掛けている。 先程まで自分達を苦しめて――いや、苦しんでいたのは自分だけできっと男は楽しんでいたのだろうが――いたそれはもはや全く沈黙していて、殺すだけ殺しては片付けない男の下でくしゃりと形を歪めている。 もとの姿を知らない者から見れば、ただの大きな毛玉にしか見えないだろう。 なにより乗っている人間に躊躇がない。 あまりに寛いでいるのでその毛玉が単なる無機のオブジェのようにも見えてくるのが不思議だ。 お世辞にも趣味がいいとは言えない代物ではあるが、月もない暗い森の中ただ転がるそれは怪異と言うより舞台装置に近いように思えた。 勿論それも、乗っている男の風貌に依るところが大きい。 黒のロングコートに黒帽子、城の手袋に長いマフラーと、まるで海外の舞台役者か奇術師のような出で立ちである。 普段はすぐに片付けろと死骸だの破片だのを押しつけてくる癖に――と。 考えても無駄なことを考えては憂鬱になる。 ――片付かない。 一向に動こうとしない男に段々と苛ついてくる。 自分としては死骸など早く滅し、仕事を終えて休みたいのだ。 こちらが疲れたなどとは自分から言いだせないことを承知の上で、ひどく楽し気なこの上司がひどく腹立たしい――とは思うのだが、疲労と諦念が勝ち怒る気にもならない。 そもそも死骸とはいえ妖に乗るとはどういう料簡なのか。 余裕の見せ方が露骨すぎて、危ないですよという儀礼的な台詞さえ億劫になる。 「聞いてるのか」 「聞いてますよ」 「愛だ、愛。お互いそんなご立派な人間じゃないが分かるだろう」 「恐ろしいですか」 「恐ろしいさ、愛だぞ。坊やのような捻くれ捻れて一周回った若造には理解できないだろうが」 理解できないものとは恐ろしくないか、と言って男が笑う。 ――理解しようとも思わないものが分からないからといって無闇矢鱈に恐ろしがるような卑屈さはお陰様で持ち合わせていない――、と。 言うのが面倒だったので、そういうものですかと適当な相槌を返した。 「無道さんは理解できて、その上で怖いんですか」 「怖くはないが恐ろしかろうとは思うな。あと同情も同調もないが理解はできる。何分――色々と、見てきた量が違うからな」 「それはそれは。御年輩の貴重なご意見、痛み入ります」 誰と違うかは言わないので聞かないことにする。 議題に上っている愛とか何とかいうものから生まれたらしい毛玉は、相変わらず黒服の男の下でかさかさと乾いた音を立てるばかりだった。 「愛は純粋な憎悪を生む」 ぼそりと呟いた男の声が腹の底に沈殿する。 脳内で再生されるその音の意味を探りながら、風に吹かれる毛玉の欠片を眼の端で追う。 「おまえは何かを憎んだことがあるか」 「え」 「ああ、違うぞ。違う違う。お前のその後生大事に抱えてる矮小なものは嫉み僻みに怒りだからな。純粋な憎しみじゃない」 まあ万が一お前が兄弟としての情なんてものを弟君に持ち合わせていたのならあるいは別かもしれないが、と思い出したように繋げて笑った。 顔を歪める俺を無視し、人差し指を立てて。 諭すように続ける。 「愛憎、というだろう。愛と憎しみは表裏一体というのだな。愛と同様に理由がない。恐ろしいというのはそこだ」 「理由がない、ですか」 「ないよ」 ぞんざいに言ってのける。 その声色に感情も――あったとしても気色悪いだけだが――温かみもない。 ――この男はいま愛とか何だとかいうものについて語っているのではなかったか。 ――不釣り合いにも程がある。 「だから嫌なんだ。理屈の通じない馬鹿は困る」 「嫌ですか」 「嫌だ」 言って強く、男は足を毛玉に埋める。 僅かに鈍い音がして、塊の一部が崩れおちた。 毛玉には先程まで顔が付いていた。 おそらくはかつて霊だったのだろう。 依頼では、敵は人型ゆえ警戒して当たれ――とのことだったが、それもどうやら杞憂であったらしい。 確かに力自体は大したことがないものの、姿形は人型のようだった。 変化して尚――人であった頃の面影はあった。 「ああ成程。羨ましいんですね」 「ああ成程、お前は俺にそう思っていてほしい訳だな」 「馬鹿言わないでください」 「そうかそうか、成程な」 こちらの言い分などまるで聞こえていないかの如く、黒衣の男は俯き肩を揺らす。 「安心しろ。頭のいい奴は恋ができない、というからな」 そう言って顔を上げる。 おそらく――というよりも明らかに――人を馬鹿にしている。引き上げた口の両端が小憎らしい。 「お前も人並みに恋愛なんてものができるようだぞ」 「俺が馬鹿だと言いたいんですか」 「馬鹿とは言っていない。単に頭が良くないと言っているだけだ」 ――変わらない。 ふざけるなと口に出すのも億劫で、ただ睨みつければさも愉快だと言わんばかりの笑顔が返されひどく萎えた。 依頼として受けたのは退治までだ。依頼は果たした。死骸の後始末など、思えば自分がすべきことでもなんでもない。 もう帰っても良いだろうと判断し、「お先に」と一礼して踵を返す。 「よかったな坊や」 背を向けて僅かに歩いたところで。 不意に後ろから掛けられた声に振り向く。 相変わらず毛玉に乗って向こう側を向いた男の背中ばかりしか見えなかった。 「俺に幹部という大義名分があって」 「何を言っているのかわかりません」 「それは重畳」 影は笑った。 否、笑っていると思った。 相変わらず向けられた背中はただただ黒く、夜の闇と同化しつつある。 「愛だの恋だのなんていうのは、実にふざけた執着だからな」 そんなものは持ちも持たれもしない方が賢明だ――と。 そう言いながら影が毛玉から飛び上がった瞬間、影から産まれた無数の球体により黒い塊が四散した。 32. 見たくない見たくない聞きたくない、まだ気付いてしまいたくない。 |
11/06/10・up |