障子一枚隔てた室内からは気配すらしない。

無人とも思えるその一室に向かい、茶を運んできましたが――と声をかける。

「ありがとう」

半ばお決まりとなっている聞きなれた返答。
許可と見做し障子を開けば、若干温度が下がったような不可思議な感覚を覚える。
陽の光射す廊下から室内に至るのだから当然のものかもしれないが。

一人部屋としては僅かに狭い座敷。
部屋の主はといえば相変わらず。
なにか考え事をしているようで、小難しい顔をしたままいくつかの紙切れを前に腕を組んでいる。

目的であった茶を机上に置き、さて目的は果たしたとばかりに立ち上がれば、浅い溜息とともに男の眉間に寄った皺が消えるのが見えた。

「現実っていうのはさ」

一つじゃないんだよな、と。
男は言った。



私はただ黙って頷いた。

男の視線は、障子の隙間に覗く空を追っている。






12







「まあこういう言い方をするとさ。現実なんて人それぞれだからとかそういう意味にとられると思うんだけど。そんな当たり前のことではなくて」

――そうなのか。

てっきりそういうことが言いたいのだろうと思っていたから、違いますかと小さく声に出す。
違うんだよと、相手からも抑揚のない声がした。

「俺が言いたいのは、それよりもっと当然で初歩的な、馬鹿みたいなことでさ」

そこで一度切り、机上の湯飲みに手を伸ばす。
割合熱めに淹れたそれをしかし平然と持ちあげて、一つ啜り。
茶柱も立たないその真平な水面を見つめながら、男は再度口を開く。

「正しく思い知ることなんか誰にもできやしないんだろうな」

現実ってやつは――、と。
そこまで言ってようやく視線をこちらに向けると、彼は湯飲みを置いた。

「よくさ、現実を思い知るとか言うだろ」
「はい」
「そこで普通は現実ってものを学ぶわけだ。少なくとも学んだ気になる。けれど――」

無理なんだ、と結ぶ。
涼しい顔で言うその本心は分からない。

「現実なんて、自分が生きて見えた範囲でしか理解も認識も予想も出来ない。だから現実を知ったなんて場合、自分の世界でも理解できるような現実しか、そもそも認識すらできていない」

そこまで言って目蓋を伏せる。
陰ができる。

元々派手な造りの顔ではないから、少し痩せたとか隈ができたとか、それだけのことが妙に目につく。



少し前、事件があった。

一人の仲間が死んだ。
まだ子供だった。
わけ有り札付きの異能者集団の中で一層変わった事情を持った、誰よりも強く誰よりも弱い、一人の中学生が亡くなった。

――この人にとっては弟のようなものだったのかもしれない。

そう思う。

そもそも裏会では、箱田のように家族の繋がりを深く持っているものは少ない。
夜行は全員が家族のようなものではあるけれど、その逆に、血縁に恵まれた者はやはり稀と言っていいだろう。



男を見る。
その表情はまるで読めない。



彼には家族がいる。
弟も――それも二人――いる。

けれどその関係は嫉妬と同情と、およそ兄弟の情とかいうものからかけ離れたもので構成されているように思う。
その弟達とあまり面識がないため実のところは不明だが、何よりその兄である彼が自分の抱いている感情をそう捉えているようなのだ。
勿論それが全てではないにしても、あながち全て間違いであるとも言い切れはしないだろう。



自分が知り得る限りではきっと誰よりも、あの少年――限は、彼の弟らしくあったのではないだろうか。

「どうした」
「いいえ」

――眼を覗きながら考えていたのは流石に不審だったか。

僅かに首を傾げてこちらを見やるその瞳は黒一色。

一瞬交差した視線を即座にかわし、先程まで彼が見つめていた空を仰いだ。
そこには一点の陰りもない。
庭の草木も砂の色さえ、その光を受け閃いている。

――これだけの光や鮮やかさを映してなお、その瞳には僅かの光彩すら入り込む隙がなかったということか。

「わりと、さ。まあ――思い知った、なんて思うことは多かったんだが。それも結局俺の思い込みみたいなものだったんだな」
「それは、一体」
「俺みたいな奴はこうやって一つ一つ、間違っていくしかないんだろう」

間違い――と。
こちらが声に出して繰り返せば、ああと小さく頷く声がする。

少なくともそんな言葉で片付けられるほど小さな失態を犯したと思っているわけでもないだろう。
また同時に、自らの間違いと呼べるほど、彼は自分からなにか考え行動したわけでもない。
責任が彼にあるのは疑いようもない事実。
しかし同時に責任を受け入れられるような心構えも、それに相応しい行動すら行うことなく結果のみが突如降ってきたのも事実ではある。



「多分、またやるんだろうなあ」



茫洋と発せられた声に思わず眉を顰める。
振り返り視線をやれば、男は惚けたように薄ら笑っている。
こちらの反応を待っているらしい。



――馬鹿馬鹿しい。



「それはそうでしょう」

不快を隠さず顔に出し――それでも極力平静を装い、声音だけはまるで振れぬよう。
私は口を開く。

「誰かに責められようなんて、甘い考えは持たないでくださいね」
「ははは、ばれてたか。手厳しいな」

あちらはあちらで困った風を装いながら、声に出して笑う。
反省の色の見えないその顔を私はきつく睨んだ。

「どうせそんな事だろうと思いました」
「敵わないなあ」
「御冗談を」



そこで一回切って、薄い眼を見る。



「私が本当に貴方を責めてしまうなら、そんなことすら言い出せないでしょう」



どうせまだ私を悪役にするには躊躇があるのだろう――と。
暗に言えば、男は薄く口を開けたまま固まった。



「――うわあ」
「どうしましたか」
「優しいと言われてるのか甲斐性無しと言われてるのか判断に苦しむな」
「お気付きでしたか。両方です」



そう言って、私は微笑む。

眉根を寄せ両の手を上げ、降参の体で彼も笑った。



「お前は俺より見えてそうだな」
「同じですよ」
「そうかな」
「同じ、人間ですから」
「そうだな」



遠くで鳥の声がする。
耳を澄ませれば、子供達の声もする。



「弁えてるなあ」
「諦めてるんですよ」
「それなら――」
「貴方は諦めたら駄目ですからね」
「――へえ」



ずるいなあ――などと。



どこか嬉しそうにぼやくその姿に、私はただ溜息を吐いた。






12. 同じ世界など見えなくて良いのです。



11/03/03・up