「長政、さま」

――ひどく感情のこもったような。
――それでいて全く感情の無いような声で、この女は自分の名を呼ぶのだ。




08




肩越しに聞こえた声に、長政は、背中を向けていた相手へと体ごと振り返る。

――この暗さではおそらくまだ陽も昇ってはいまい。

おそらく顔など向けたところで目は使い物にならず無駄だとは分かっていながらも、とかく礼儀とばかりに向きをかえる。
無音だった部屋に、布の摺れる音だけが響いた。
そうして視線は向けたものの、まず光量が足りないのだからろくに見える訳がない。
並んだ布団の妙な間隔も災いしてか、長政は結局、布団から僅かに生えた頭らしきものを発見できただけだった。
布団から僅かに覗く顔上半分だけでは相手の表情など分かりはしない。おそらくは横向きになっているのだろう。
肌色の上に髪が斜めに掛かっていて、長政には、眼が開いているか否かですら判断できなかった。

「何用だ、市」
「いえ、その――…あ、起こしてしまって、ごめんなさい」

市は眼を会わせようともせず、此方の問いにも答えてはいない。長政は不機嫌を隠さずむしろ積極的に表に出して、相手に自分が見えていないことも忘れて睨みつけた。
そのまま数秒待ってみても、何の反応もない。
長政も焦れて、そんなことはどうでもいいから早く用件を言え――と急かしてみるのだが、それでも返ってくるのは定型句のような謝罪のみ。
自分から呼びかけておいてなかなか用件を話し出さないその胡乱な態度に長政も、初めはただ苛つきだけだったが、次第に怒りに近いものをも感じてきた。

元来、無駄は嫌いな性質なのだ。

名前は人を表す記号であり、言葉は用件を伝えるための手段でしかない。長政にとって、要領を得ない話などは最早言葉とも呼べないものだ。
無用なものは、そもそもこの世にあってはならない。
だから、言葉とは有用なものだし、有用でなければならないものだと、長政はそう思っている。

「用も無いのに呼ぶな!私は明日も忙しいのだ」

痺れを切らし言い捨てた。
返事を聞く気もないことを表すためにわざと音を立てて布団をかぶり直し、顔を背けて眼を閉じる。

「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、長政さま」

それきり相手も黙ってしまって会話は止まった。
顔こそ見えないが、長政が思うに、きっと相手も消化不良になっているに違いない。

魔王の妹といわれる女。
長政には理解できない部分も多くはっきりとしない態度にいらつくことも多々ある。しかし長政が見るに、この女はまるで愚劣というわけではない。
あまり自ら主張するということをしないのは思慮と気遣いと自信のなさからくるもの、それでも完全に無になりきろうとしないのは、矢張り物を見据える能力があるということ。
戦国に生きる女として、できることできないこと、本人なりに見極め努めようとしているのだろう――。

卑屈な態度をとることも多いが、彼女自身が思っているより余程、彼女は確りしている。
長政とて市のことは認めている。
認めてはいるが、だからといって苛つかぬものでもなければ、急に打ち解け仲睦まじくなれるというものでもあるまい。
世には相性というものがある。

――胡乱なものは苦手だ。
――要するに、自分はこの女が苦手なのだ。

そう結論付けて、長政は思考を中断した。






長政が市を妻に迎えてから、もう三度は月が巡った。
一月後、長政はまだ市の笑顔を知らない自分に気付いた。
二月後、笑わせる方法の分からない自分を知った。
そして三月が過ぎた。
それでも妻は笑わない。

――そういえば、己も笑っていない。






――静かだ。

長政は寝返りを打った。
一度は背けた顔を真上に向け、妻の方向を伺う。市はといえばこちらも背を向けていたようで、長政の目には後頭部しか映らなかった。

辺りはまだ尚暗い。

目を覚ましてから一刻は経ったようにも感じたが、部屋の明るさは依然変わらず、実際には数秒しか経っていないような気もした。

「おい、市」
「なに?長政さま」
「起きていたのか」
「――うん。長政さまも?」

問いには答えず、長政は見慣れた天井をただ見つめていた。

「おい、市」
「はい」
「――いや」

――胡乱だ。

言うべきことも明確でないのに話しかけるなど、普段の長政であれば絶対にしない。
そのため自身でも不思議で、何を言おうとしたのか何を言うべきか思い出そうと――おそらく何かを言いたかったのだ、そうでなければ自分は口を開かなかった筈だと長政は考えている――するのだが、長政の中でその答えは出なかった。

――こんな状況は、こんな感情は、こんな――。

長政は知らない。覚えがない。聞いたこともない。
だから、分からない。

――けれど、自分は既に発言してしまった。
――だから、考えなければならない。

――自分は無駄口など叩くような人間ではないのだから。



「長政さま」
「な、なんだ」
「市は――」

怖いの、と。
消え入るような声で、妻はそう言った。
長政は”何が“とも、”どうして“とも、尋ねる言葉はすべて滑稽な気がして、開きかけた口を噤んだ。

元々、市は浅井家の人間でもなければその領民ですらない。
むしろ敵国――明確に敵対しているわけではないが、他との同盟を考えるに敵となるであろう筈だった国――の女。しかもその国の主、大名の妹である。
無論こちらに戦意のないかぎり人質として身の安全や待遇は保障されているものの、従者も僅かしか連れることを許されず(しかも、それも父により減らされている)、ほぼ単身でこの女は長政のもとへやって来た。

――それが、いかに寂しいことか。
――いかに心細いものか、心許ないものか。

やはり長政には想像もつかないのだ。

「城の皆は優しいの――お父様は少し怖いけれど。それでも、兄様の妹だからと言うだけでなくて、皆とても優しい」
「市」
「長政さまも」

びくり、と。
不意に己の名が出されたことで、長政の腹の底が震えた。

「家のことや国のこと、他の国のこと、自分のことだけで大変なのに、市にいろいろ教えてくれる。市が不甲斐無いせいで、怒らせてしまってばかりだけれど」
「それは――」

――違う、と。

声には出さず、心中にて続けて叫んだ。
長政はこの女に自身がどう思われているかなど考えたこともない。
自分があれやこれやと口を出すのは、自分の妻が『大名の妻』らしくあるべきと思うからで、『市』という女の為を思ってやっていることではない。

思えば、こちらへ来てから市が苦労すること苦心すること、その殆どは夫であり家長である長政のためなのだ。

――では。
――俺はこの女のために何をした。

今現在も、長政には何ものかも分からない何かからの恐怖に怯えながら、暗闇の中にいる女。

――その女のために、自分は――。

長政は市へと顔を向けた。
月明かりに浮かぶその像は曖昧で、すぐ近くにいる筈なのに、まるで手が届かないもののような遠さを感じて口を開く。
妙に喉が渇いていた。

「市」
「はい」
「夜は暗いな」
「はい」
「そして、静かだ」

布団に入ったままで市の方へと寄り、手を伸ばす。
市の布団の端へ手を置くと、探るように控えめに伸びてきた手を感じて布団越しに握った。

「だが、私がいる」
「長政さま」
「だから、早く寝ろ」

――僅かに布団の動く衣擦れの、音。

きっとその首を上下させ頷いてくれたものだろうと、その音を優しく感じながら。
長政は遠く遠くどこかで鳥の鳴くのを聞いた。






08. 忘れさせてあげるから、忘れてくれると約束して



09/04/11・up