「それはそう価値のあるものなのか」

疑問としてではなく、ただただ無感動に。

抑揚のない声が、おそらく俺に向けられた。



その人の顔は俺とは反対の――窓の外へと向いたままである。






03






「――え」

口から思わず漏れ出た声に、相手はようやくこちらへ顔を向けた。
逆光にくわえて全身黒尽くめに黒帽子といった服装のためだろうか。窓から覗く陽光が、後光のように射している。

「どうした薫。随分と間の抜けた顔をしているな」
「いえ、え、あの――」

混乱した頭でとにかく音を発しながら、俺は今までの流れを反芻する。



高級そうなグラスと氷。
そして先日お祝いにと渡された品の一つである上等そうな洋酒。
それらを乗せたこれもまた装飾のついた立派な盆を持ってこの部屋の扉をノックしたのは、まだ数十秒前といったところだろう。

許可を待って中に入ると、普段かけられる陽気な声はなく。
あまりの静けさに息をのめば、正面の窓に不自然に黒い影がある。
窓枠から覗く庭は陽の光を受けて草木全体が光っているようにも見える。

――眼がくらむ。

暖かい風と光――春の兆しを告げるそれらが、室内に慣れた眼に刺さる。それでも逆光で判然としない影に眼を凝らせば、部屋の主である黒衣の男がなぜか部屋の最奥、窓枠の上に座り外を眺めていた。

妙にさまになるその図に呆気にとられ動けずにいると、気配で悟られてしまったのか「どうした」と彼の声が響いた。
思わずバランスを崩しかけた盆を両手で持ちなおし慌てて背筋を伸ばす。

とにかく何か言わなければと、絞り出すように――「このたびは、誠におめでとうございます」と。それだけは音にすることができた。

そこまでは覚えているのだが、どう思い返してみてもそれ以外の言葉を口にした覚えはない。



その返答が先の言葉なのだから、どう考えてもおかしい――と、考えるのが普通だろう。
まず『それ』という言葉が一体なにを差しているものかすら思い当たるものがない。
自然に考えれば自分の運んできた洋酒くらいしかなさそうなものだが、不思議なことに彼はこちらを見る前に『それ』と言っている。
酒の事とは考えにくかった。

「すいません、分かりません」

正直に言って頭を下げる。
呆れられてしまうのではないかと内心怯えながら床を見つめていると後頭部に静かな笑い声が降ってきた。
驚いて顔をあげれば、窓枠に嵌った彼と眼が合った――ような気がした。
逆光のためその表情は読み取れない。

「――はは。まあそういうところがお前の美点であり短所なんだろうな」
「理解の至らなさがですか」
「いや、原因を自分に置くところだ。『あれ』ならおそらく分からなければ俺を責める」
「『あれ』――とは」
「いや、何でもない」

少し待ってはみたもののそれ以上の説明が与えられることはなく。
仕方なしに、意味も分からないまま俺はただ「はあ」と曖昧な言葉を返した。



ここはあくまで彼のこの施設においての私室である。
したがって部屋の作り自体は他に比べて圧倒的に立派だし、僅かに置かれている家具にしても洋風の――同僚によればそれらは洋風の中でも”アンティーク”と呼ばれる部類なのだそうだが、それが正確には何を指すのかよく分からない――ものが揃えられているとはいえ、どれもあまり使用されていない。
たまの滞在である今でさえせっかくの椅子を動かした形跡すらない。

よく部屋のインテリアや配置を担当している友人が、自分のセンスが悪いために使ってもらえないのではと洩らしていることを思い出した。

――そういえば。

あまり、自分で選んだもの以外のものをそばに置いているイメージがない。
もちろんそれはただの印象でしかなく、実のところはよく分からないのだけれど。



そんなことを考えながら周囲を見渡していると、彼が窓枠を離れこちらに向かっているのに気付いた。

―-靴音すら、聞こえなかったと思うのだが。

僅かにたじろぐ。
後光を離れ、見やすくなったその表情に浮かぶ笑みの意味は分からない。

「で、そろそろ分かったか」

一歩、一歩。
やはり何の音も気配も感じさせず、けれど男はこちらへ向かっている。

「いえ――俺は、そんな話は、していなかったかと」
「そうかな」
「はい。それとは一体――」
「しているだろう。それだよそれ」

白い手袋が、机上の瓶を指差す。
凝ったデザインの透明なガラス瓶に、これもまた意匠をこらしたデザインのラベルが貼られている。
よくよく見れば何となく、さぞや高名な銘柄なのだろう――とも思うのだが、いかんせん自分にはそれを語れるだけの知識も教養もない。
そもそも銘柄らしきアルファベットの上下に記号が書かれている時点で、その言語すら分からない。

「すいません、酒にはあまり詳しくないもので」
「違う」
「は」
「違うと言っている。そんな詰まらん酒の銘柄なんて知ったことか。そうではなく――それを渡した奴やお前が目出度いとか言っているやつだよ」
「それは、――そうでしょう」

俺が目出度いと言っているのも、この酒が祝っているのも。
今目の前にいる黒づくめの男――『不死身の無道』の『十二人会』への着任に他ならない。

『十二人会』は裏会の最高幹部にあたる職で、なんでもその幹部たちはそこに属すること自体を秘密にしなければならないらしい。
俺はなぜか当人の口からそれを聞いたので信憑性の程は分からないが、言われてみればたしかに十二人会の名など一人も知らないのだからきっと正しいのだろう。

それでもやはり知る者がいないということはない。
幾人から――知った名、見知らぬ名、勿論差出人不明のものもある――祝いの品が届けられた。
そんな中の一つがこの酒である。

「昇進祝いじゃないですか」
「昇進、ね。それならなにか、お前は俺が昇進したと思ってるわけだ」
「え」
「まあ確かに。各室長以外で役職なんていったらそれくらいしかないしな」
「は、はい。幹部――最高決定機関、なんでしょう」
「名が効くようになるらしい」

俺への返答なのかすら判断つかない言葉を発し、彼は足を止めた。
丁度部屋の中央。
設置された小ぶりのテーブルに手をかけて、笑う。

「そんな肩書ごときで。俺が今までできなかったことができるのだそうだ。逆にいえば――その肩書がなければ俺にはできないことがあったということだろう。笑わせる」

眉をひそめ、僅かに険を作った顔が机上の手を睨む。
その剣幕に圧されて声を飲めば、薄く開いた黒眼が閉じた。

なにか――なにか言わなければと思うのだが、何も言葉が出てこない。
やっとのことで開いた口に、喉。
腹の奥から震えにも似た音が漏れる。

「あ、あの」
「――さて!」

たん、と。

一つ、景気のいい手を打つ音。
驚いてみれば男はすでにその大きく暗い瞳をあらん限り見開き、小首を傾げている。

「それらを踏まえてお前が今すべきことは何かな」
「え、あ――す、すいません!その、これ、返してきま」
「違う」

短く溜息を吐き、いつまでそんな所につっ立っているのかと呆れた声がかけられた。
思えばこの部屋に入ってから一歩も動いていない。

慌ててテーブルに向かい、運んできた盆ごとその上に載せ――空いた効き手を、白い手が掴んだ。

「無道、さん」
「せっかく持ってきた氷が解けてしまったな」
「す、すいません!いますぐ――」
「謝るな。ショットで良い、早くしろ」
「え」

言葉の意味が分からず、男の眼を覗く。
深く黒いその瞳の表面に困惑する自分の姿が映っている。

「お前が飲ませてくれるんだろう」

男の空いた手が伸び、俺の唇を柔らかい布がなぞる。
その動きと合わせるように、男の舌がその薄い唇を濡らしていく。



「ああ、かわいいなお前は」



ただただ哀れなその自分の姿から眼を逸らすために。
俺はただ目をきつく閉じ、仰せのままにと呟いた。






03. 自分の為なら、いくらでも平気で真実を殺せるよ



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